浅間火山レースで頭角を現し、1961年に世界GP日本人初勝利を達成!
高橋国光さんは1940年東京生まれ。まだ鈴鹿サーキットが完成する以前の1958年〜1959年、当時の国内レース最高峰だった浅間火山レースで、BSAゴールドスターを操って圧倒的な速さを見せつけ頭角を現す。「天才少年現る」と騒がれ、瞬く間にホンダのワークスライダーに抜擢。
そして世界GPにデビューしたばかりの1961年5月には、ドイツのホッケンハイムで開催された世界GP第2戦・250ccクラスで、ホンダRC162を駆って日本人ライダーとして初めて世界GPで勝利するという、日本モータースポーツ史に残る快挙を達成。翌1962年には125ccクラスで開幕2連勝を記録したが、第3戦マン島TTで大クラッシュ、生命に関わるような重傷を負ってしまった。その影響もあって、翌年の1963年限りで若くしてレーシングライダーを引退することになる。
四輪レースに転向、1999年まで現役で走り続ける
しかし1964年には四輪レースに転じ、今度は日産のワークスドライバーとなった。その天性の速さは四輪レースでも変わることなく、5L、6Lという大排気量のレーシングスポーツカーを難なく乗りこなし、当時の国内4輪レースのビッグイベント「日本グランプリ」を沸かせた。そして当時のツーリングカーレースで圧倒的な速さを誇ったスカイラインGT-Rでも大活躍するなど、日本のトップドライバーとしての地位を固めていった。
オイルショックの影響による日産の活動縮小後は、全日本F2000〜F2〜F3000と続いた国内トップフォーミュラや富士GC、全日本耐久選手権や全日本ツーリングカー選手権といった国内レースの最高峰で、星野、中嶋といった後輩たちや、数多の外国人ドライバーたちを相手にトップドライバーとして戦い続けた。1977年にはスポット参戦ながらF1も経験し、1980年代からはル・マン24時間に何度も挑戦するなど、レースカテゴリーやマシンを問わず、幅広く活躍。
トップフォーミュラでの活動は1994年までだったが、入れ替わるように全日本GT選手権へ自らのチームであるチーム国光のドライバーとして、最高峰のGT1/GT500クラスに参戦。飯田章とのコンビでホンダNSXをドライブした1999年に富士で開催された第2戦では、なんと59歳にして総合優勝を達成している。
ドライバーとしては1999年限りで現役引退したが、それ以後は監督としてチーム国光を率い、全日本GT〜スーパーGTに参戦を継続していた。
また、長年日本のモータースポーツ発展に貢献した功績が認められ、2020年には文部科学省から「スポーツ功労者顕彰」を受けたことも記憶に新しい。
一方、気さくで飾らない人柄でも知られ、現役時代から「国さん」の愛称で、多くのレースファンやメディア関係者から親しまれていた。webオートバイも、謹んで高橋国光さんのご冥福をお祈り申し上げます。
文:小松信夫