以下、文:太田安治
「オートバイの販売台数は80年代から減少し続けている」と聞いたことがあるでしょう。日本自動車工業会のデータでは、日本国内の新車販売台数(生産台数ではありません)は1982年がピークで約327万台を記録しました。2022年は約40万台なので、およそ1/8にまで減っているのが現実です。
この数値を切り取って、「日本のオートバイ業界は終わりだ」といった悲観的な論調を散見しますが、早計と言わざるを得ません。80年代前半の販売台数には特殊な事情があるからです。それが後に『HY戦争』と呼ばれる、ホンダとヤマハによる国内販売シェアのトップ争いです。
HY戦争には国内外の経済事情や企業戦略、経営トップの思惑といった様々な背景がありますが、書き出すとキリがないので、ここではおよそ40年前に実際に僕が見て聞いて体験したこと、50ccクラスの現状や将来を交えて簡単に説明しましょう。
ヤマハの宣戦布告~ホンダの逆襲
70年代後半、二輪の国内シェアは首位ホンダに2位のヤマハが迫っていました。当時ホンダが海外を含めた中型オートバイや4輪事業に注力していることをチャンスと見たヤマハは、79年にトップシェアの奪取を宣言。これはホンダに対する事実上の宣戦布告です。基本戦略は安価で販売台数を稼ぎやすい50ccモデルを中心に販売攻勢を仕掛け、一気にシェアを奪うというものです。
大ヒットしたスクーターの「パッソル」、「パッソーラ」に続けて高級スクーターの「ベルーガ」、オートマチック変速で手軽に乗れる「キャロット」、「タウニー」といったモデルを矢継ぎ早に投入。主婦層から中年男性層までに対象ユーザーを広げることで販売台数を稼いだのです。
不意討ちのような先制攻撃を受けたホンダですが、ヤマハの本気を目の当たりにして黙っているはずはありません。スーパーカブをはじめとするオートバイの成功で世界的企業に成長した会社のプライドを賭けて反転攻勢に出ます。
主力スクーターの「タクト」や「リード」をはじめ、様々なスクーターを続々と投入。70年代後半に爆発的に売れた「ロードパル」を源流とする「ハミング」や「ランナウェイ」といったファミリーバイク、スーパーカブ系の横型、CB50系の縦型50cc・4ストロークエンジンを搭載したミニバイクも他機種展開してヤマハと真っ向勝負に。両社の販売合戦は激しさを増していきます。
80年代序盤というHY戦争の年代的に、「VT250F」対「RZ250」、「CBX400F」対「XJ400」のライバル関係を連想する人もいるでしょうが、一般的にニューモデルが企画されてから市販化されるまでには3年以上を要するので、これらのモデルはHY戦争勃発以前から開発が進んでいたはずです。ただし戦闘状態に入ったことで企画の見直し、開発のスピードアップや予算の増額があったとも噂されていました。さぞや開発、生産の現場は大変だったでしょう。
僕は80年代中頃まで市販車をベースにした車両で戦うF3(フォーミュラースリー)やSPレースに出ていましたが、86年以降に登場したホンダのNSRとCBR/VFR系、ヤマハのTZRとFZ/FZR系はHY戦争終結後に起きたレーサーレプリカブームの産物という印象です。実際、サーキットには両社の企画、開発部門の方々が頻繁に視察に来ていて、ユーザーの意見をこと細かく吸い上げていました。両メーカーは性能面で戦うライバルとして激しい火花を散らしていたのです。
話をHY戦争の主戦場である50ccに戻しましょう。販売競争が最も激しかったのは80年と81年です。その頃からオートバイ誌4月号と10月号で新車アルバムの原稿を書いていた僕は、新型車が次から次へと湧き出すように登場してくるため、書き分けに相当苦心した覚えがあります。50ccモデルだけでも年間に50車種以上が登場し、既存車種のマイナーチェンジ、バリエーションモデルの追加、色変わりまでもが加わって実にカオスな状況になっていたからです。
アルバム号をオートバイ選びの参考にしてくれる読者が多いことは嬉しかったのですが、当時は原稿用紙に手書きだったので前モデルの原稿をコピペすることもできず、正直、「ニューモデルラッシュ、いいかげんにしてくれ!」と文句を言いつつ、ペンだこの痛みに耐えながら書いてました……。
テレビCMも大量に流れた販促活動
販売促進のための広告はオートバイ専門誌はもちろんのこと、一般誌にも当たり前のように掲載され、新聞の折り込みチラシ、街貼りのポスターも大いに活用されました。しかし、ユーザーの新規開拓に大きな効果を挙げたのは何と言ってもテレビCMです。当時のトップ俳優にアイドル、タモリさんや渡辺貞夫さんらをはじめとする芸人やミュージシャンがこぞって出演し、夕方から深夜まで毎日大量のCMが流されたのです。
HY戦争の当事者ではないスズキもスクーターの広告にマイケル・ジャクソン、伊藤 蘭、後には明石屋さんまらを起用して大きな話題になりました。スマホどころかインターネットが影も形もない時代に、テレビCMと雑誌広告は効果絶大で、多額の広告予算が付いたのです。単一車種のテレビCM、また観てみたいものですが……。
テレビCMやカタログ製作のロケに何度か参加しましたが、現場への移動、宿泊、食事は贅沢そのものでギャラも破格。この頃から80年代のバイクとレースのブームを経て、91年のバブル崩壊まではユーザーとショップと用品量販店はイケイケ、広告代理店と広告製作会社もホクホクの期間。年配者が「あの頃は良かった……」と言うのもご理解ください。僕もつい口走ってしまいます(笑)。
販路の拡充と値引き販売
HY戦争は車両の性能を競うのではなく売り上げ台数の勝負なので、メーカー系列の販売会社は既存ショップへの営業はもちろん、販売チャネルの拡充にも力を入れました。
多額の資金を投入して街の自転車屋さんから発展したショップの改装、新規出店の後押し、既存店の直営化を行ったほか、業務形態に共通点が多い4輪ディーラー、主婦顧客が多いスーパーマーケット、さらにホームセンターにアウトドア用品店など、最前線となる販路を広げていったのです。新車販売をメーカー専売店と正規販売店に絞り込んでいる現在では考えられない状況ですね。
当時の50ccスクーターは定価10万円前半(しかも消費税の導入前です)のモデルが売れ筋でした。しかし80年以降は3万円以上の値引き販売が当たり前になり、81年頃になると車種によっては「半額ポッキリ!」という極端な値引きが珍しくなくなりました。当時は自転車も日本製で、今のような海外製の激安自転車はありません。「自転車を買うつもりで販売店に行ったら、同じような値段だったので50ccバイクを買っちゃった」という主婦層も多かったのです。
HY戦争の当事者はホンダとヤマハという企業なので、ユーザーに直接の被害が及ぶことはありません。最前線であるショップにも悲壮感はなく、「兄ちゃん、一台買ったらもう一台タダで付けるから、家族か彼女にプレゼントしてやんなよ!」みたいな、軽くて爽やかなノリでしたよ。
しかしその裏ではメーカーの営業マン達が日夜奮闘していたのです。元販売店担当営業マンは「厳しいノルマを達成するために休日返上や長時間残業は当たり前。店頭にライバル車が並んでいたら自社のモデルに並び替えたり、夜の店で販売店の店長や社長を接待したり……。自分の時間なんてゼロだったけど、営業マンとして短期間に鍛えられた」と語り、元メーカーの開発者、生産現場の管理者、サプライヤー(車両メーカーに部品を納入する企業)の方からも同様のことを聞きました。
今ならブラックな職場として糾弾されますが、「勝つためには当然」という空気が支配していたのでしょう。現在は引退している彼らが先達となり、その後の企業を支え続けたことも事実です。
スズキのOBに聞くと、スズキはHY戦争による利益度外視の安売り合戦を「いい迷惑だ」と捉え、一定の距離を置く姿勢だったそうですが、販売の現場は苦境に立たされ、値引き販売を余儀なくされたとのこと。もう一つ付け加えておくと、カワサキは50ccスクーターがラインアップになかったので、HY戦争の影響は限定的でした。
僕は82年に新車価格8万円の「モトコンポ」2台と6万7000円の「ハミングG」を1台、合計3台の新車を10万円で買ったほどです。現在の売買価格を見ると、モトコンポあたりを大量に買って保管しておけばいい稼ぎになったと思いますが、当時はプレミアという概念もなく、中古車が新車より高くなることなど誰も想像できないことでした。今更ですが残念!
83年1月、HY戦争は静かに終結
現在のメーカー系ディーラーや独立系ショップは、販売会社から新車を買い取ってから顧客に売ります。しかし80年代は販売会社が「販売委託」という形でショップに新車を置いていくことが多くありました。ショップは売れた分だけを販売店に支払うので仕入れ負担がなく、販売会社は保管場所を減らせるという、一見するとメリットばかりの方法です。そのため販売車両が店内に収まりきらず、店の前の歩道や車道にズラリと並ぶのは「バイク屋あるある」の光景だったのです。
このようにショップの見た目に勢いはありましたが、「委託」という方法は販売会社に課せられたノルマを達成するための手段です。ショップは売り先の決まっていない車両を抱えることになりますが、薄利多売と販売会社からのバックマージン、その後のメンテナンス、自賠責保険などの手数料収入で利益を確保していました。
とはいえ大幅な値引き販売が常態化すればメーカーの利益は上がりません。短期決戦のつもりが、相手が思いのほか強くて泥沼化してお互いに疲弊する……。リアルな戦争でもよくあることですね。
安売りで掘り起こした潜在顧客が、その後も頻繁に買い換えてくれるわけではありません。ホンダの一歩も引かない姿勢を見たヤマハは勝利を断念し、83年1月にホンダ、ヤマハのトップ会談で販売合戦の終結に合意。後には大量の在庫車両、支払いの焦げ付き、先行投資の負担などが残りますが、それでも戦争を継続するよりもマシ、という判断です。
こうして足かけ3年に渡るHY戦争は、ユーザー視点からすると静かにあっけなく終わりました。
安売りがなくなったことで50ccモデルの販売台数が落ち込み、販売台数(排気量関係なしの二輪車総販売台数)が減ったのは事実ですが、その理由を知っておくことは大事だと思います。
またHY戦争の終結後に国内二輪市場全体が一気に収縮したわけでもありません。80年代の中盤から250cc/400ccを中心としたスポーツモデルが人気となり、レースブーム、レプリカブームが起こります。これが『80年代バイクブーム』を膨らませていったのです。
ちなみに251cc以上の小型二輪車は80年に約9万7000台、ピークの85年が約14万3000台、ドン底の2010年が約5万8000台です。しかし21年に約8万3000台、22年には10万台と、上昇に転じた事実も覚えておいてほしいと思います。
文:太田安治
太田安治(おおた やすはる)
1957年、東京都生まれ。元ロードレース国際A級ライダーで、全日本ロードレースチーム監督、自動車専門学校講師、オートバイ用品開発などの活動と並行し、45年に渡って月刊『オートバイ』誌をメインにインプレッションや性能テストなどを担当。試乗したオートバイは5000台を超える。現在の愛車はBMW「S 1000 R」ほか。