アメリカのバイク事情は、すぐ隣りにあった!

関東村というのは、立川と横田基地に駐留する米軍の家族や軍属のための居住区の通称で、現在は返還されて跡地の一部に味の素スタジアムなどが建てられたのだけど、その広大さは今でも充分に感じられる。J・グリンセルというこの男は、横田基地でモーターサイクル教官を務めるウイスコンシン州出身の空軍将校で、ボクの知り合いである。

横田に限らず米軍基地はアメリカそのものなので、敷地内の交通は自国と同じ右側通行になる。それはいいのだけれど、任地から基地に戻った兵隊がバイクやクルマでゲートを出れば、とたんに日本の左側通行に直面する。このため事故がひんぱんに起こり、これはいかんと、基地内で交通ルールとテクを教えるスクールが開校されたというわけだ。

彼はここで教官を務めていて、基地のすぐ近くの「外人ハウス」に住んでいたボクと、バイクつながりで仲良くなった。彼がボクのことをRYОと呼ぶのは、フリーランス時代のペンネームからで、今でも古くからの友人はボクのことをリョウと呼ぶ。

画像: GL1000の市販車は1974年にラスベガスで発表された。しかし、アメリカ渡航のハードルは時代的にとても高く、GL1000とはどんなモデルなのだろうという憶測はつのるばかり。さらに、当時の日本では上限750cc自主規制時代ということもあり、ほぼ目にすることがなく「GL1000国内を走る!」ということが大きく記事になるのである。

GL1000の市販車は1974年にラスベガスで発表された。しかし、アメリカ渡航のハードルは時代的にとても高く、GL1000とはどんなモデルなのだろうという憶測はつのるばかり。さらに、当時の日本では上限750cc自主規制時代ということもあり、ほぼ目にすることがなく「GL1000国内を走る!」ということが大きく記事になるのである。

画像: 当時、記事が掲載されたオートバイ1976年5月号。表紙には、主要特集タイトルが並ぶ中、「追跡●ホンダGL1000国内に出現!!」の文字が。表紙に掲載するところからも貴重な内容であったことがわかる。

当時、記事が掲載されたオートバイ1976年5月号。表紙には、主要特集タイトルが並ぶ中、「追跡●ホンダGL1000国内に出現!!」の文字が。表紙に掲載するところからも貴重な内容であったことがわかる。

ナナハンブームがもたらした過酷なバイク規制!

で、GLである。これは74年のドイツ・ケルンショーで発表されたホンダGL1000のことで、現在のゴールドウイングGL1800につながる初代モデルなのだけれど、バックグラウンドを説明する必要がある。69年にホンダがCB750Fourを発表し、カワサキが72年に900Z1スーパーフォアで迎え撃った。この2台はそれまでのビッグバイクの概念を一新し、またたく間に世界のスタンダードとなったのはご存知のとおり。

73年、カワサキは日本国内向けに、同じ750㏄でホンダに勝負をかけたカワサキ750RS(Z2)を登場させ、世はまさにナナハンブームとなった。しかし、これに付随したように発生したのが暴走族問題である。彼らはナナハンが主になるバイクの先導隊と、改造されたクルマの群れで活動し、各地域の代表を名乗るチーム同士が激しい抗争を繰り返した。その舞台が東京都心に及んだことから、警視庁は取締りを厳しく強化した。

75年10月には400㏄以下の限定免許(現在の2輪普通免許)の新設、そして安易に大型免許を取らせない目的で、一発受験のみとした大型免許の施行、さらに都心を中心とするバイク通行禁止区域の拡大を決行した。その矢先に、ホンダは世界戦略車としてGL1000を発表したのだ。もちろん輸出専用車としてだが、何ともタイミングが悪すぎた。車体の画像とスペックが発表されると、ボクらは能天気に色めき立った。世界初の水冷1リッター水平対向4気筒シャフトドライブ! これだけでも驚愕に値する。どんな乗り味なんだろう? 少しでも早く乗ってインプレッションを届けたい! しかし、そんなボクらの思いをよそに、ホンダは一向に発表試乗会の知らせを送って来ないのだ。

画像: 今から40年以上も前ということで、当時のボクはまだまだ青年。大変貴重な試乗の機会ということもあって、絵に描いたようなリーンウィズ。全身から緊張感が伝わってきますねぇ。

今から40年以上も前ということで、当時のボクはまだまだ青年。大変貴重な試乗の機会ということもあって、絵に描いたようなリーンウィズ。全身から緊張感が伝わってきますねぇ。

画像: ナナハンブームがもたらした過酷なバイク規制!

姿の見えないGL1000。実車はどこに!?

問い合わせてみると「その予定はありません。どうしても乗りたいならアメリカまでどうぞ」と素っ気ない。今だったら羽田なり成田からひとっ飛びなのだけど、当時は諸もろの事情で、アメリカ渡航のハードルはとても高かった。いつにないホンダの対応を訝りながら、GL1000とは、どんなモデルなのだろうという憶測はつのるばかりで、ウソかホントかわからない類いのウワサが横行を始める。

いわく、埼玉の暴走族のトップが個人で逆輸入し、ボディをピンクに塗って走り回っている。その詳細な目撃談などなど。個人輸入しても陸運局が認可を降ろさないから、物理的にナンバーが取れっこない、というものもあった。もちろんボクらも独自に情報を探ったのだが、ライバル誌のモーターサイクリストもGL探しに熱心で、どちらが先に具体的な結果をスクープするのか、勝負の行方は迫りつつあった。

緊張感いっぱいだったサイクリスト誌との電話!

そこにあの電話である。ボクは風呂から上がると大あわてで身支度し、愛車だったスズキT250Ⅱをすっ飛ばして、関東村に向かった。そうか、その手があったのか! 陸運局が何と言おうと、治外法権の米軍基地ならナンバーの取得は可能なのだ。だけどGL1000を購入した人がいて、それがグリンセルの生徒だったとは、何という奇遇だろう! ゲートの前でグリンセルと待ち合わせ、さっそくオーナーに面会する。若い空軍兵士の彼はグリンセルに「実はもう1件、取材と試乗の依頼があるんだ」と言い、「それはきっとキミのライバル誌だよ」とボクに言った。

グリンセルは「RYОはオレの友だちなんだ。彼にも乗せてやってほしいけど、メインのライダーはオレがやる。どうだ?」と押す。ややあって、彼は微笑み、グリンセルに右手を差し出し、ボクとも握手をしてくれた。そう言えば、この時点でボクは編集部の誰とも連絡を取っていない。完全に独断だったけれど、このチャンスに迷いはなかった。

そのとき、居間の電話が鳴った。3人で顔を合わせ、彼が受話器を取ろうとしたとき、ボクは彼を制して受話器を取った。知らない人の家の電話に、ボクが出る。これはどう見ても異常な行為だし、今でも説明がつかないのだけれど、ボクには予感がしたのだ。

「ハロー?」と言う声。日本人だ。少し間を開けて、もしもし? と応える。先方も少し沈黙したあと「モーターサイクリストの橋本と申します」と言った。「月刊オートバイの船山です」と応えると、橋本さん(当時のモーターサイクリスト誌編集長)は、少し黙って静かに受話器を置いた。やっぱり! まさに間一髪だったのだ。

情報は新鮮なほど価値が高い。これは確かだ!

1976年の本誌5月号。ここにそのときグリンセルとボクが書いたインプレッションが「GL1000国内を走る!」と題されて掲載されたのだけれど、このページの入稿時のことは、今でも鮮明に覚えている。ボクの机にカラーページのゲラがあり、GL1000に乗るボクの姿が印刷されている。絵に描いたようなリーンウィズだな、などと思っているところに、編集部のドアが勢いよく開かれた。

見るとホンダの広報部長ではないか! えらい剣幕である。ボクは目の前のゲラに他のページをかぶせて目隠しをし、何食わぬ顔で挨拶した。すかさず席から立ちあがった編集長が、彼を別室に誘導する。その後、どう言いくるめたのかは定かではないけれど、広報部長は引き下がり、このページは無事に世に出た。

ちなみにモーターサイクリスト誌は、次の号で渡米し、現地で乗ったGL1000のインプレッションを掲載していたが、その扱いは控えめだったように記憶している。偶然がもたらしたスクープだったとはいえ、ライバル誌を出し抜くことが出来た。これはオートバイ誌にとって初めてだったこともあり、本誌の勢いを活気づかせる引き金にもなった。このときを境に部数は上昇を始め、それまで後塵を拝していたライバル誌との距離を、急速に縮めていったのだ。

オーバーナナハンの露出に神経質だった理由は!?

だいぶ後になってから、ことの経緯を当時の関係者の口から聞くことが出来たので、記しておこう。このとき、ホンダを始めとするバイクメーカーは、警視庁と微妙な駆け引きをしていた。それは社会問題となってしまった暴走族が、先導隊にナナハンのバイクを使用していたことによる。強烈なパワーを持つナナハンに手を焼いた警視庁は、それ以上の排気量車をメーカーが手掛けることに神経を苛立たせていた。

このためメーカーは「750㏄を超える排気量のバイクは国内で販売しない」という自主規制に踏み切る。ホンダがGL1000の国内メディアへの発表に後ろ向きだった理由は、そこにあったというわけだ。この自主規制は90年代まで続くのだが、販売店での逆輸入がポピュラーとなったこと、また海外メーカーからの外圧などから大型免許の教習所取得が可能になり、やがてこの規制も撤廃されて行く。さらに高速道路での規制も最高速度がクルマと同じになり、2人乗りも許可されて現在に至る。

初のツーリングスポーツは異次元の走り!

GL1000に話を戻そう。原稿を読み直してみると、国産車では初めてのカテゴリーとなるツーリングスポーツとも呼ぶべきこのモデルに、戸惑いながらレポートしていることがよくわかる。何せ比較するものが見当たらないのだ。だけど一部でささやかれていた「カワサキ900Z1の対抗馬」ではなく、それはまったくの勘違いだということは理解できた。ライダーに負担をかけずにロングランをこなすツーリングスポーツに、何が求められているのか、ホンダもこのときは試行錯誤だったに違いない。

今さらながら、へぇ〜っと思ったのは、今なら当たり前の17インチホイールをリアに履いていたことだ。フロントは19インチで、当時のビッグスポーツバイクと同サイズだったのだが、リアは18インチがスタンダードだったから、このサイズは当時では超マイナー。グリンセルが旅先でのタイヤトラブルが心配だと書いたのは、もっともなことだ。オーナーになった人が旅慣れたライダーなら、巨大なダミータンク(左右に開いて小物入れになる)に、予備のタイヤチューブを忍ばせていたに違いない。

後にGL1800に乗る機会に恵まれたが、その完成度の高さと快適そのものの乗り味に舌を巻いたものだ。これは40年以上の時を経て熟成を積み重ねた結果であり、その初代モデルに触れることが出来た貴重な体験は、ボクの宝物のひとつなのである。

画像: 初のツーリングスポーツは異次元の走り!
画像: 当時の記事を読んでみると「今まで、GLを逆輸入してでも乗りたいというファンは多かったが、国内では、どうしても陸運局での認可がおりず、ナンバーをとれない(つまり行動を走れない)ということで、輸入業者も個人も二の足を踏んでいた。昨年、●●モータースで2台のGLをアメリカから輸入したが、複雑な事情がからんでその2台を、再びアメリカへ戻してしまうという事情もあった」と、当時の750ccより大きなモデルに乗るのがいかに大変だったかが分かる。

当時の記事を読んでみると「今まで、GLを逆輸入してでも乗りたいというファンは多かったが、国内では、どうしても陸運局での認可がおりず、ナンバーをとれない(つまり行動を走れない)ということで、輸入業者も個人も二の足を踏んでいた。昨年、●●モータースで2台のGLをアメリカから輸入したが、複雑な事情がからんでその2台を、再びアメリカへ戻してしまうという事情もあった」と、当時の750ccより大きなモデルに乗るのがいかに大変だったかが分かる。

HONDA GL1000

ホンダ初の水平対向エンジン搭載モデルで、初のシャフトモデルでもあるGL1000。当時から最新のメカニズムが搭載され、長距離巡航の快適さ、耐久性、信頼性も高く、アメリカでグランドツアラーの概念がない時代に、その完成度から徐々に人気を高めていくことになる。

画像: HONDA GL1000
画像: 超低重心の設計と巨大なアップハンドルで、車体をリーンさせるのは実に容易。あまりにヒラリと動いてしまうので、高速道路のレーンチェンジでは気を遣うほど。エンジンの静かさは特筆ものだった。

超低重心の設計と巨大なアップハンドルで、車体をリーンさせるのは実に容易。あまりにヒラリと動いてしまうので、高速道路のレーンチェンジでは気を遣うほど。エンジンの静かさは特筆ものだった。

画像: ガソリンタンクはシートの下に設置されていて、給油口はダミータンクのセンターリッドを開くと現われる。容量は19リッターで、テスト時の高速道路を含めた燃費は16.9km/リッターとまあまあの数値。

ガソリンタンクはシートの下に設置されていて、給油口はダミータンクのセンターリッドを開くと現われる。容量は19リッターで、テスト時の高速道路を含めた燃費は16.9km/リッターとまあまあの数値。

画像: 左右に開閉するダミータンクは、右にラジエターのリザーバータンクと非常用のキックペダルが収まる。左は電装品で埋まり、センターリッドにはグローブボックスと呼ぶに値する小物入れが設けられている。

左右に開閉するダミータンクは、右にラジエターのリザーバータンクと非常用のキックペダルが収まる。左は電装品で埋まり、センターリッドにはグローブボックスと呼ぶに値する小物入れが設けられている。

■主要諸元(1978年モデル)
エンジン 水冷4ストOHC水平対向4気筒
排気量 999cc
ボア×ストローク 72×61.4mm
圧縮比 9.2
最高出力 78PS/7000rpm
最大トルク 8.46kg-m/5500rpm
トランスミッション 5速
ブレーキ フロント:φ232mmWディスク
ブレーキ リア:φ250mmディスク
車体重量 273kg
駆動方式 シャフト
タンク容量 19リッター
シート高 810mm

歴代「GL」モデル

画像: 1980年を過ぎるころ、シリンダーのボアを4ミリ拡大したGL1100となり、さらに83年にはボア・ストロークを伸ばされたGL1200となる。6気筒となってフルモデルチェンジしたのは88年からで、排気量1520ccのGL1500に。

1980年を過ぎるころ、シリンダーのボアを4ミリ拡大したGL1100となり、さらに83年にはボア・ストロークを伸ばされたGL1200となる。6気筒となってフルモデルチェンジしたのは88年からで、排気量1520ccのGL1500に。

画像: アルミツインチューブフレームの1800ccになったのは01年からで、当初は700台の限定モデルとして登場。07年にはバイクで初めてのエアバッグ装着車を追加するなど、細かいマイナーチェンジを繰り返した。

アルミツインチューブフレームの1800ccになったのは01年からで、当初は700台の限定モデルとして登場。07年にはバイクで初めてのエアバッグ装着車を追加するなど、細かいマイナーチェンジを繰り返した。

画像: 先日の東京モーターショーで世界初公開したWウイッシュボーンのフロントサスペンション、6速MTと7速DCTが選べる現行モデルに発展。初代のGL1000から数えると、実に43年に及ぶ超ロングセラーモデルなのである。

先日の東京モーターショーで世界初公開したWウイッシュボーンのフロントサスペンション、6速MTと7速DCTが選べる現行モデルに発展。初代のGL1000から数えると、実に43年に及ぶ超ロングセラーモデルなのである。

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