愛称は「忠さん」。レースでも試乗会でも逸話だらけ!
鈴木忠男、愛称は「忠さん」。ヤマハ車用を核とした高性能オリジナルマフラーで有名なスペシャルパーツ忠男の代表であり、自身は60年代から70年代にかけて大活躍した、ヤマハワークスのモトクロスライダーだ。今回はそんな忠さんの驚くべき逸話をいくつか紹介しよう。
初のワークスマシン、トーハツTR250で優勝!
「17歳になって千葉のスピードスクランブルに出たら、優勝してね。最年少だって言われたっけ。それでトーハツが『乗らないか?』って言うの。ワークスマシンのTR250に乗せてくれるって言うんだよ。チームを移籍して乗ってみたんだけど…。全然たいしたことなかった(笑)。ボクの乗ってたYDSといい勝負(笑)。
それでも誰も乗ってないマシンだから、注目度はスゴかったよ。そうこうしてるうちにトーハツが倒産しちゃった。その少し前からヤマハがモトクロスに本格的に参入して来てて(63年秋から。マシンはYGー1、YAー6、YDSー2がベース。ライダーは荒井市次、三室恵義など)、かなり力を入れていたんだ。
スポーツライダースの野口種晴(ヤマハの初代ワークスライダー)さんが、たまたま見に来ててね。昼休みに『ちょっと乗ってみないか?』って言うんだよ。YDSベースのワークスマシンね。それで乗せてもらったら、もうハンパじゃないんだ。馬力が倍くらいあるんじゃないかってくらい(笑)。
でもね、それでもトーハツのTR250に乗ってるボクが勝っちゃうんだから、けっきょくモトクロスっていうのは、マシンの良し悪しじゃないんだね。人間の要素がすごく強いレースなんだ。それでスポーツライダースに入ることになって、その翌年、ヤマハと契約したの。20歳のときだったな」。
トーハツは50㏄でランペットCA2というスポーツバイクを発表し、大人気モデルとなったメーカー。山口オートペットでモトクロスに参戦していた忠さんにとっても、あこがれのモデルだった。当時8000円の給料だったのに、ほぼ年収に近い価格のCA2を購入した忠さんは、このモデルで初優勝を遂げることに成功した。
ところがトーハツのワークスからは生沢 徹(後に4輪レースに転向。日本のカーレース創世記のトップドライバー)が出走していて、ワークスマシンとの速さの違いに驚かされる。トランスミッションも3速から4速となっていて、クラッチの位置も別物。「乗りたかったなー。そんなもん、乗れるわけないんだけど(笑)」と忠さんは言う。
全盛期は高性能な2ストの小型車でホンダをも凌ぐ勢いだったトーハツ(正式名称は東京発動機株式会社)は、64年に倒産してしまうのだけど、会社更生法の適用を受けた後、トーハツ(株)として再生し、特にマリンエンジン関係で多くのシェアを占め、現在も活躍している。
4つのクラスをひとりで走り、全クラスを制覇!
「伊豆の丸の山高原のレースで、ヤマハのワークスライダーに交じって走ったんだよ。そしたら予選で、ボクがブッチ切りで速いの(笑)。決勝はダメだったけど、まわりは『ヤマハはえらいヤツ入れたな〜』って思ってたんじゃないかな。それから初めて全日本選手権でアチコチ行くようになったんだよ。
だって、それまでは家の近所のレースじゃなくちゃ、出られなかったからね。レース終わっても、帰ってから家のこと(旋盤工業)やらないと怒られちゃうから。全日本なんか追いかける気もなかったんで、年間ランキングは、いつも3位くらいだった。ランキングって何なのか、それまで知らなかったんだけどね(笑)。
その年、65年だな。三浦海岸の長浜ってところでやったレースでね、このときは90、125、250、オープンと4クラスに出たんだ。丸の山高原のときもそうだったけど、全部に予選があって決勝まで1日でやっちゃうから、走り終わってピットに戻ってくると、もう次のマシンが用意されてるんだよ。休んでるヒマなし。もう、まる1日乗ってるのね(笑)。この長浜のレースでは全部のクラスで優勝できた。ボクは事前のテストってやらなかったから、それぞれ各クラスのマシンは全部、ぶっつけ本番だよ。気持ちの切り替えなんてしないし。だってモトクロッサーなんて、誰だって乗れるじゃん?(そんなわけ、ありません:編集部)
その翌年からは125と250だけにしたんだけど、いつもどっちかでは勝ってたね。このときは忠さんって出るレース、全部勝ってたんじゃないか?って言われたけど、そうかも知れない。でも、初めて全日本選手権の250㏄でチャンピオン奪るのは、もう少し後のことだよ」。
スタート後にプラグ交換、そして全員を抜き去る!
ヤマハワークス入りしてから、その速さに俄然注目が集まった忠さん。その仰天するべきエピソードが、これだ。「相模湖の近くの山岳コースで全日本のレースがあったのね。ボクはいつものようにダットサンのトラックにYDSとYAー6を積んで、近所の友だち誘って行ったんだ。城北ライダースの矢島金次郎(スズキのワークスライダー)なんかも出てて、この連中ってカッコよくてね。全員が緑色のヘルメットかぶって、トランポなんかもしっかりしてる。こっちはダットサントラックに、きったないカッコしてるから、羨ましくってしょうがなかった。カッコだけ見れば、ボクなんかアマチュアもいいとこだよね。
それで、いざスタートっていうとき、ボクのエンジンがかからない(当時はキックスタート)のさ。何回キックしてもダメで、押し掛けしてもかからない。仕方ないのでダットサンに戻って、そこでプラグを交換したら、ようやくかかった。でも、そのときはもう、1周遅れくらいになってるんだよ。
でもそこから追い上げて、全員抜いちゃったの。レース終わったら、優勝だって言うんで、自分でもビックリしちゃった。相手は同じクラスに出てる、同じ技量のはずの選手たちだから、なおさらだよね。優勝したヤツがスタートの後でプラグ交換してたなんて知ったら、よけい驚いただろうね(笑)」。
忠さんはコーナーで、アクセルを戻さない!
「あのころはモトクロスって仕事じゃないと思ってたんだよ。ボクの本業はあくまでも旋盤工で、モトクロスは『大好きな趣味』だったんだね」と言う忠さんだけど、ここでボクの大好きなエピソードを紹介しよう。
ボクは現役時代、忠さんと組ませてもらったことは何度もあるのだけれど、その中でも忘れられないのが、ホンダが毎年行なっていた栃木県「しどき」での市販モトクロッサー試乗会だ。
2ストマシンCR250Mで忠さんがコースに出ると、白衣を着たホンダの技術開発陣が、緩やかだが延々と登り坂となる第1コーナーのアウト側に鈴なりになる。このコーナーは全開で進入後、軽いブレーキングの後、マシンをコーナーに向かって立て直し、トラクションを重視しながら駆けあがるというものだ。
ところが忠さんは進入から、まったくアクセルを戻さない。流れるリアタイヤをハンドルだけでコントロールしながら、ラインに乗せて行くのだ。だから、排気サウンドはカン高いまま、リアタイヤは砂塵を巻き上げるまま。この「忠さん劇場」にホンダの技術陣は拍手喝采! つい最近、このことを忠さんに訊いてみると「うん、あそこは一番の見せ場だからね」と、くったくなく笑った。肝心のインプレッションは、何を尋ねても「最高!」しか言わないので、担当としては苦労したものだったけれど(笑)。
語り:鈴木忠男・TEXT:船山 理(本誌・元副編集長)・PHOTO:八重洲出版(株)