幾多の名車・ヴィンテージが生まれた昭和と
技術革新でオートバイが急速に進化を遂げた平成。
しかし、もうすぐ新元号。新しい時代に突入する前に
歴史に残る名車烈伝をお送りします。
いつまでも忘れない、今でも乗りたい珠玉の名車たち。

ナナハンとは排気量でなくCB750Fourのこと

昭和41年、ホンダは世界グランプリレースで史上初のメーカータイトル5クラス(50/125/250/350/500㏄クラス)を完全制覇。強すぎるホンダを規制しようとレギュレーションが強化され、ならばとホンダはGPから撤退。次なる目標は、レースで培った技術を市販車に生かすことだった。

世界中のオートバイ&自動車メーカーがアメリカ市場を目指していたこの頃、ホンダはスーパーカブこそ爆発的人気を得ていたが、特に大型の2輪販売が低迷。年間6万台ほどのアメリカの2輪マーケットのほとんどは英国車が占め、CB450が思ったような高評価を得られなかった頃だ。

「450㏄では小さい」とするアメリカと、450㏄なんて大型バイクはほとんど売れていなかった国内事情。

そこで、ホンダは思い切ってアメリカ市場の要望に舵を切り、750㏄スポーツの開発に乗り出す。750㏄という排気量は、当時トライアンフが開発しているらしい、という新型モデルの排気量に合わせた設定で、目標値だった67馬力は、当時のハーレーの最高出力を1馬力だけ上回ろう、というもの。

狙いはGPレーサーの直系をイメージさせる4気筒、4本マフラーモデル。ハイウェイを時速100マイルで巡航でき、振動と騒音が少なく、メンテナンスが容易。ハイパワーを安全に、という観点から、市販車で初めてのディスクブレーキ装備(前輪のみ)も、量産直前に決定したのだった。

画像: 量産車世界初の並列4気筒エンジン、4連キャブレター、4本マフラー。200㎞/hの最高速とゼロヨン12秒4の超高性能で世界の頂点に立った。

量産車世界初の並列4気筒エンジン、4連キャブレター、4本マフラー。200㎞/hの最高速とゼロヨン12秒4の超高性能で世界の頂点に立った。

ナナハン誕生と暴走族と死亡事故増加

ナナハンがアメリカで発表されたのは昭和44年1月の、ラスベガスでの2輪ディーラー合同展示会。

当時アメリカでの大型バイクが2800〜4000ドルだったのに対し、ナナハンは1495ドル。衝撃のホンダGPマシン直系モデルが、市販車で初めての技術をたくさん連れて、こんな値段で発売されるなんて——ナナハンには注文が殺到し、年間生産計画台数1500台が、そのまま月間計画となり、それでも足りずに、月産3000台にまで膨れ上がった。販売見込みの、およそ24倍という凄まじい人気だった。

画像: ナナハン誕生と暴走族と死亡事故増加

アメリカに先んじて、昭和43年の第15回東京モーターショーで国内デビューを果たしたナナハンは、44年8月に、38万5000円で国内販売を開始。公務員の初任給が3万円という時代、トヨタ・カローラより高価なバイクの販売促進に、ホンダは分割払い制度をスタートさせたほどだった。

そしてナナハンは、暴走族や交通事故問題など、社会問題となるほどの存在になっていく。なにせヘルメットの着用義務は昭和40年に高速道路に限って着用努力義務とされたくらいで、ナナハン市販の頃には40㎞/h制限の幹線道路のみの努力目標だけ。つまり最高速度200㎞/hを実現したナナハンで転倒すると……。警察庁が調査した「暴走族使用車両統計」では、その大半が大型二輪車を使用しているというデータも発表された。

そのため、国内では750㏄以上のモデルを販売自主規制し、昭和50年にはオートバイ用の免許に「中型限定」を導入。それまでは125㏄以下とそれ以上という免許区分しかなかったのだ。

いいことばかりではない。世相に様々な影響を及ぼすほど、ナナハンの誕生は大事件だったのだ。

画像: HONDA CB750F 昭和54年/1979年 CBナナハンから10年、昭和54に発売された第2世代のナナハン、CB750Fも大ヒット。アメリカを目指したナナハンに対してFはヨーロッパ市場を狙った。

HONDA CB750F 昭和54年/1979年
CBナナハンから10年、昭和54に発売された第2世代のナナハン、CB750Fも大ヒット。アメリカを目指したナナハンに対してFはヨーロッパ市場を狙った。

PHOTO:富樫秀明

公式サイト

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