時代が変われば、流行は変わるもの。もちろんバイク業界もさまざまなブームが巻き起こり、鎮まり、また新たなトレンドが生まれてきた。その中で世界中に衝撃を与えた登場直後から40年以上、常に人気者であり続ける怪物モデル、それがゼットワンであり、ゼッツーだ。
文:太田安治/写真:松川 忍/車両協力:ウエマツ
※この記事は2014年3月15日発行の『東本昌平RIDE82』の特集から一部抜粋し、再構成して掲載しています。
画像: Kawasaki 900SUPER4 Z1 発売年月:1972年11月 総排気量:903cc エンジン形式:空冷4ストDOHC2バルブ並列4気筒 乾燥重量:230kg

Kawasaki 900SUPER4 Z1
発売年月:1972年11月

総排気量:903cc
エンジン形式:空冷4ストDOHC2バルブ並列4気筒
乾燥重量:230kg

太田安治(おおた やすはる)

1957年生まれ。初めての愛車であるモンキーZ50Mから愛車として30〜40台のバイクを乗り継ぎ、Z2やCB750FOURもかつての愛車のひとつ。86年に国際A級ライセンスを取得。91年〜94年まで全日本ロードレース選手権に監督として参加。GP250クラスではプライベート最上位を獲得し、所属ライダーを世界GPへと送り出した。現在は月刊『オートバイ』で試乗インプレから用品テストをはじめ、さまざまな企画を手がけている。これまでに試乗したモデルは5000車種以上、その数は今も更新中。

【ショートストーリー】いつの時代も男を虜にするスーパースター(太田安治)

「おい、この新聞見てみろ。カワサキから凄い単車が出たってよ。ディーオーエッチシーで4気筒で900ccで82馬力。こりゃナナハンもメじゃないな。まあ、お前には10年早いか……」

二階の寝室から寝ぼけ顔で降りてきた僕に、いつもとは違った早口でまくしたてながら、父が朝刊を差し出す。

若いころから陸王やラビット、CBなどを乗り回していた父は、僕がオートバイに興味を持ち始めたことを知っていた。15歳で生意気盛りの小僧だった僕と、久しぶりに共通の話題で盛り上がろうとしたのかもしれない。

その記事は経済面にあった。川崎重工が高性能な大型オートバイを完成させ、北米市場を中心とする輸出を始めたという内容だが、高校生になったら原付免許を取って5万円ぐらいで中古の50ccを買って……などと漠然と考えていた中学三年生にとっては、月旅行並みに現実味がない。

だが、記事横の写真に目が釘づけになった。エンジンから伸びる4本マフラーと、タンクからサイドカバーを経てテールカウルに繋がる柔らかなボディライン。それまでのどんなオートバイにも似ていない艶っぽさ。

「900スーパーフォア、かあ……」

トーストをかじってインスタントコーヒーをすすりながら、いつかは乗れる日が来るのかな、と考えた。

翌1973年、僕は高校に進学したが、この都立高校は放任主義的な校風で、禁止されているはずのオートバイで通学する者も多く、天気のいい日は学校の塀に沿って数十台ものオートバイが並ぶ。高校生の懐事情を反映して原付から中排気量クラスの2〜5年落ち中古が多かったが、CB750や500、XS650、W1SやW3といった大型車もあった。

遅咲きの桜が満開の暖かい春の日。いつもの塀沿いに行くと、人だかりができていた。見慣れたオートバイたちの中に、明らかに違うオーラを発散するオートバイが一台停まっている。茶色とオレンジのカラーリング。黒く塗られた4気筒エンジンから伸びる4本のマフラー。発売されたばかりの750RSだ。

国内には排気量750ccまでという制限があり、900スーパーフォアは排気量を下げて『750RS』として販売される、というのは仲間内で回し読みしていたオートバイ雑誌で知っていたが、実車を見るのは初めてだ。

集まっている連中はRS(Z2ではなくアールエスと呼んだ)を囲み、なめ回すように眺めては、それぞれの表現でその美しさを讃える。校内売店で買った焼きそばパンと瓶コーラを両手にぶらさげた僕も、しゃがんだり背伸びしたりして見る角度を変えるたび、RSの艶っぽさに惹き込まれた。と同時に、ラーメンが150円、セブンスターが100円の時代に、42万円近くする新車を買える奴に嫉妬した。

パンを食べ終えて、校舎の窓を気にしながらタバコに火を点けたころに、同級生のひとりがニヤけた顔でやってきた。

「貯金全額突っ込んで買っちゃったよ。まだ慣らし中で四千くらいしか回せないけど、それでも速いぜ。アクセルをグイッと開ければケツが後ろにズレるんだから」

ホントかなあ。まあいいや。

「なあ、音を聞かせてくれよ」

取り囲む僕たちと、その上に広がる青い空が映り込んだマフラーを指差しながらそう言うと、同級生は待ってましたとばかりにセルを回した。

アイドリングでは同じ4気筒750ccのCBよりも軽くて澄んだ排気音だが、ヒュワン! ビュワン! と空吹かしすると、太い吸気音と金属的なカムチェーンノイズが混じる。集まっていた十数人はシンフォニーの聴衆のように、黙って聴き入った。

「俺、午後はフケるから。知り合いのバイク屋で、いろいろ改造するんだ」

ショートホープを咥えたままバスケットシューズの靴紐を締め直した同級生は、横開きシートに引っかけた帆布製の小さなサイドバッグから赤いスイングトップを引っ張り出し、入念にバックミラーを合わせると、ヒュルヒュル……という音を残して走り去った。

同級生のRSは見るたびに姿が変わった。最初は低くて短いコンチネンタルハンドルと、握り心地のいいトマゼリのグリップ。次にヨシムラの集合マフラーとコニーのリアサス。さらにはFRP製のフロントフェンダー、シビエのヘッドライト、アサヒのタレ付き風防……。バックミラーやウインカーのステーも短いものに交換し、ノーマルよりも随分と軽快なイメージに変身した。

「お前んちの工場でさ、バックステップ造れないかな?」

僕の家が鉄の切断や溶接をしている鉄工所だというのは知られていた。帰宅して父に聞いてみた。

「単車の部品加工か。現物を見ないと何とも言えないが……。どんな単車なんだ?」
「750RSだよ。前に新聞に載ってた900スーパーフォアって覚えてる? あれの日本用なんだ」
「そりゃいい。いつでも持ってこい」

バックステップは半日ほどで完成した。ステップを斜め後方に移すのは簡単な加工で済んだが、左右のペダル位置を合わせるのが難しい。結局チェンジペダルは前後方向を逆にして、ブレーキペダルは長さを詰めた。

「レーサーも逆チェンジなんだぜ」

同級生は誇らしげに言うと、集合マフラーの快音を響かせて帰っていった。

「かっこいい単車だなあ。お前もあの煙くて貧相なのから乗り換えたらどうだ。そしたら俺にも乗らせてくれ」

工場の隅に置いてある僕のRD350を横目で見て、父が笑った。

画像1: 【ショートストーリー】いつの時代も男を虜にするスーパースター(太田安治)

RD350から750SSを経て、ずいぶんヘタった中古のRSを手に入れたのは大学生になってからだ。

外装を全部バラし、アルミやメッキパーツはウエスにピカールを付けてひたすら磨く。トランジスタラジオでオールナイトニッポンやセイヤングを聞きながら、指紋がなくなって血が滲むまで、スポーク1本からリアサスのスプリングまで、幾晩も幾晩も磨き続ける。ピカールを二缶使い切ったときには、同級生が初めて乗ってきた日のRSと同じ、艶めかしさが蘇っていた。

もう深夜だったが、我慢できずに湘南まで走った。自販機の缶コーヒーで冷えた指先を暖めながら一服。後ろは真っ暗な海。水銀灯の光に浮かび上がり、キラキラ光るRS。

「こんな色気のある単車はそうそう出てこないぞ。綺麗にしてやれよ」

磨きに没頭していたとき、僕の背後から父がかけた言葉を思い出す。

RSを手に入れてから父との会話が増えた。RD350や750SSに乗っていた頃は小僧まるだしだった僕も、大人の階段をひとつ上ったのだろうか。親子ではなく、対等な大人同士の話ができるようになっていた。

「おい、よく覚えとけ。単車の扱いは女と同じだ。力も頭も使うし、技術も要る。それでひととおりの経験を積んだって、危ない目に遭うことがある。男はそこに惚れるんだ。危険から遠ざかることばかり考えているような奴は男じゃない。だからお前は男だ。でも、単車が好きなら単車で死ぬな。単車に負けたら男じゃなくなるぞ」

体のあちこちに転んでできた傷があるくせによく言うよ、と思ったが、父の言葉は耳に残った。言われてみればRSの艶っぽさは体のラインが出る薄いドレスをまとい、輝く宝飾品を着けた大人の女性のイメージに重なる。

東京に戻る途中、第三京浜で夜が明けた。クロームメッキのパーツに朝焼けの空が映る。そうだ、父に乗せてやろう。そして確認しよう。僕たちは男同士なのだと。

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