ひとつの大きな時代が終わり、ものごとが少しずつ正常な状態に戻って行った—オートバイ業界の1990年代って、そんな時期だったんじゃないだろうか。爆発したエネルギーが収束して、溢れ出た流れの下から、新しい芽吹きが始まった、そんな時代。
67年生まれの僕にとって、90年っていうのは23歳からの10年間。いちオートバイ乗りとして、時代の真っ只中にいたし、実はすでにこの仕事を始めていたから、実感があるどころか、リアルタイムで経験してきた。
思えば90年代の幕開けは、レーサーレプリカブームの終わりと同時にやって来た。レプリカブームっていうのは、正確にいつからいつ、と定義できるものではないけれど、僕は83年のRG250Γ誕生から、88年のNSR250R発売がピークで、93年の馬力規制で終わりが来た、と見ている。
ナニ言ってんだ、80年のRZ250がレーサーレプリカの始まりだろう、と言う向きもあるだろうけれど、RZ時代には、まだレーサーレプリカなんて言葉はなかったはずだ。
けれど83年発売のRG250Γは、その性格付けやディテールが、レーシングマシン=RG500Γをレプリカ=複製していたし、開発チームのリーダーが、250Γのタコメーターに3000回転以下の目盛りがないことを「だってRG500Γがそうですから」と説明したという。レーサーレプリカとは言わずに、レーシングプロト、と呼んでいた—そういう話、月刊オートバイに載ってたもん(笑)。
僕が2輪雑誌の編集者としてのキャリアをスタートしたのが、この88年。この時、オートバイ界はレーサーレプリカブームの真っ只中にあった。冗談じゃなく、毎週のようにニューモデルが発表され、毎月のように既存モデルがフルモデルチェンジされて発売された。ニューモデルが発売されると、それをバイク雑誌が試乗・取材するための「メディア発表会」が開催されるのは今も変わらないけれど、この1〜2年は、毎週のように伊豆や箱根のワインディング、各メーカーのテストコースで発表会が行われていたっけ。
そして僕はこの頃からのニューモデルに、ほとんど乗って来た。もちろん、カメラマンさんに撮影されるような本格的な「試乗」をするわけじゃないんだけれど、試乗をお願いするライダーさんにニューモデルを届けたり、取材場所まで乗って行って運んだり、編集部の駐輪場にあった、取材予定で貸し出しを受けたモデルを、深夜こっそり持ち出して走り回ったり—。
この頃、仕事として初めて乗った最新モデルは、忘れもしないNSR250Rだった。88年のNSR、つまり名車の誉れ高きハチハチNSR! これに、ヨロヨロと乗って撮影場所まで運んでいったのを強烈に覚えている。
うはぁ乗りづれぇ。でも速えぇ、こんなの誰が乗るんだろう—僕のハチハチNSRのファーストインプレッションは、そういうことだ。けれど、僕の立ち位置とまったく逆の「サーキット」では、戦闘力ある市販モデルがレースで勝ち、販売台数を伸ばしていった、そんな時代でもあった。
思えば、それは危険信号だったのだ。高性能が、誰もが楽しめるものだったならば、それは乗り物として正常な進化なのだろうけれど、この頃の250㏄、400㏄、750㏄のレーサーレプリカの高性能化は、明らかに常軌を逸していたように思う。
ワインディングやサーキットを走れば、確かに性能の美味しいところを使うことができて確かに面白い乗り物だった。けれど、街中で、高速道路で、そしてツーリングで使うには、決して快適ではないライディングポジションやエンジン特性、サスペンションのセッティング、そして価格だった。
だから、レーサーレプリカは徐々に「普通のライダー」にそっぽを向かれ始めた。88年のピークから93年、つまり5年かけて、ゆっくりとレーサーレプリカ称賛の声が消えて行った。
かわって登場したのは、カワサキZEPHYRだった。もちろん、仕事としてニューモデルに接していた僕は、水冷4バルブ並列4気筒59PS、73万9000円のZXR400の翌月に、空冷2バルブ並列4気筒46PS、52万9000円のZEPHYRが発売されるなんて、この先のオートバイ界はいったいどうなってしまうんだろう、と思ったのも事実。そして、のちに大ブームを巻き起こすZEPHYRを、あーあ、カワサキやっちゃったな、これ大失敗モデルになるだろうな、なんてしたり顔で友人に話したこともあったっけなぁ、恥ずかしい(笑)。
あんなにラインアップを埋め尽くしていたレーサーレプリカは徐々にモデル数を減らし、かわりにZEPHYRのようなネイキッドと呼ばれる普通のスポーツバイク、スティードに代表される和製アメリカンが増えたし、SRはストリートでどんどんカスタムされ、TW200はスカチューンなんてブームを巻き起こしたっけ。ビッグスクーターが出現するのもこの後の話だ。
つまり、レーサーレプリカという異常さが消失して、ネイキッドやアメリカンといった正常なカテゴリーが復活したのだ。だから僕は、88年から93年ごろを、「失われた5年」と呼ぶ。この5年間、本当ならば正常進化して登場しているはずだった普通のスポーツバイクが、少しのショック反動を伴なって、再登場した、ってことなのだ。
90年代に入って登場した印象的なモデルは、91年の東京モーターショーに登場したCB1000スーパーフォアだった。フルカウルじゃない、アルミフレームじゃない、超高性能じゃないけれど、雄々しくて堂々としてカッコいい、ホンダCBらしいオートバイだった。当時、このモデルに試乗して「サーキットではバンク角が少ないね」と評した試乗ライダーがいたんだけれど、あれには心底がっかりしたなぁ。えぇ、そんなバイクじゃないんじゃない?って思ったのを覚えている。
レーサーレプリカじゃなく、スーパースポーツと呼ばれるようになったモデルの完成度に舌を巻いたのは、96年のGSX-R750だった。10年も昔の、フレームが細っそい油冷エンジンモデルと同じ重量に仕上げられた、アルミツインチューブの水冷エンジンモデル。シュワンツがチャンピオンを獲ったRGV-Γと同じディメンジョンに収めました、って言葉に、オートバイの進化を感じたものだった。
そして99年のYZF-R1誕生で、想い出深き90年代は終わりを告げる。みんなが勘違いをして、右へ倣えばかりになってしまったレーサーレプリカ時代から、再び元の道に軌道を修正できたのが90年代なのだ。
レーサーレプリカこそが正しいオートバイの進化だ、と思わされていた時期から、ネイキッドもアメリカンもシングルもトラッカーも、オートバイにはいろんな楽しみがあるんだ、ってことを思い出せたのも90年代。決してレーサーレプリカを否定したいわけじゃない。あの頃異常だったのは、レーサーレプリカ「ばっかり」になってしまったことだった。
みんながサーキットを走るわけじゃないし、サーキットを誰も走らないわけでもない。ツーリングをしないライダーもいるし、毎週のようにツーリングに出かける人だっている。
走る、観る、磨く、イジる、長く乗る、次々と買い替える、みんなで走る、一人で走る—。オートバイには、たくさんの楽しみがある。たくさんの楽しみがあるのが、僕が愛したオートバイという名の乗り物なのだ。