世界を大きく変えた〝ケルンの衝撃〟とその後
当時のスズキ2輪設計部の横内さんが初めてED2のクレイモデルを見たのは、市販を前提としたモデル審査会でも何でもない、いわば非公式のお披露目。
デザイナーも技術スタッフも生産部門も、カタナのプロトモデルを見て声をなくしていた。
それほどまでに衝撃的だったのだろう。
「私はGS650Gを担当していたんですが、そのデザイン会議にターゲット社のED1スケッチが届いたんです。素晴らしかった、完全に負けました。その後、カタナも社の内覧会で見たんですが、衝撃的でしたね。かなわないと、私はスズキのデザイナーを辞めたんです」とは、当時スズキのデザイナーだった齋藤勝彦さん。
齋藤さんはGS1000やGT380、仮面ライダーのサイクロン号のを担当した敏腕デザイナーだった。
スズキ社内でカタナが公開されたのが80年の春。
そこからスズキは、秋のケルンショーに向けて生産準備に取り掛かる。設計部をあずかる横内さんは、社長の決済なしに生産準備をスタート。
もちろんケルンショーでの人気爆発を見越した、明らかなフライングだった。
「ケルンショーでは、急きょアンケートを作って、お客さんに記入してもらったんです。
ブースの裏でスタッフがハサミで紙を切り出して、200枚くらい作ったかな。
非常に良いが5点、そこからまったくダメが1点と5段階評価をしてもらって。
評価は両極端、まぁまぁいい、とかまぁまぁダメ、って意見は少なかったですね」と、当時ヨーロッパスズキの営業課長だった谷さんは言う。
5点の人にだけわかってもらえればいい――今度は横内さんが、このアンケート結果を持ち帰って、社長を説得する番となった。
クレイの時点で「こんな仮面ライダーみたいなの、本当にやるのか」と言っていた社長も、アンケート結果に「そうか」と言うだけだったそうだ。
「社長はいつも即決の人。実はもう生産準備が進んでます、とは言えないから、生産台数やコスト、生産工程表を添えてGOサインをもらったんだ。この数か月後、81年の春のモデルとして間に合わせるぞ、って動き始めたんです」(横内さん)
次は技術畑である横内さんが動く。
かつてないスタイリングのED2=カタナにふさわしい、グレードアップしたGSX1100を用意するのだ。
「大掛かりな設計変更じゃなく、出来る範囲でカタナ専用の機能部分を作り上げたんです。ターゲットデザイン、そしてムートがイメージした、アウトバーンを切り裂くようなハンドリング、世界最高のパワー。スズキのビッグバイクがもう一歩進化した瞬間だった」(横内さん)
カタナは81年春からデリバリーを開始し、ケルンショーでの反響通り、特にヨーロッパで大人気を博した。
「スズキのバイクは性能はいいけど格好がね、って言われなくなったよ。僕はそれがうれしかった」(横内さん)
あれから約40年。素晴らしいデザインは、時間を超え、今もライダーの心を掴んで離さない。