画像: 世界GPを成立させるために雇われた? インドネシアから来た男(1964年・日本GP)<歴史発掘コラム Episode 1>

クラシカルな出で立ちのライダー、その正体は…

お椀型のヘルメットに二眼式のゴーグル、黒い革ツナギというクラシカルな出で立ちでフルカウルのレーサーを押している外国人ライダーのモノクロ写真。モノクロというだけでなく、後ろに並んでいる自動車から見ても相当古い写真だ。それもそのはず、今から55年前の1964年11月1日、鈴鹿サーキットで開催されたロードレース世界GP第12戦・日本GPでのひとコマ。

画像: 1964年日本GP・250ccクラス、スタート直前のグリッド。ポールを取ったジム・レッドマンのホンダRC165の向こうで、予選2位・ゼッケン22のヤマハRD56に乗るフィル・リードとレッドマンが言葉を交わしている。ゼッケン28のMZの右手にマイク・ヘイルウッドの姿があり、一番向こうで腕を組むのは2台目のRC165を駆る125ccチャンピオンのルイジ・タベリ。2列目手前、ゼッケン11のRD56のライダーは伊藤史朗。台数は少ないが豪華なメンバーだ。

1964年日本GP・250ccクラス、スタート直前のグリッド。ポールを取ったジム・レッドマンのホンダRC165の向こうで、予選2位・ゼッケン22のヤマハRD56に乗るフィル・リードとレッドマンが言葉を交わしている。ゼッケン28のMZの右手にマイク・ヘイルウッドの姿があり、一番向こうで腕を組むのは2台目のRC165を駆る125ccチャンピオンのルイジ・タベリ。2列目手前、ゼッケン11のRD56のライダーは伊藤史朗。台数は少ないが豪華なメンバーだ。

前年に続いて鈴鹿で2回目となる世界GP開催で、トップの写真のように多くの観客が詰めかける注目度の高いレースだった。125ccクラスはスズキのエルンスト・デグナーが水冷のニューマシンで前年の負傷から復活勝利。250ccクラスでは、ホンダのジム・レッドマンが1964年の250ccチャンピオンを決めていたヤマハのフィル・リードを破り、デビュー間もない6気筒エンジンを積んだRC165の初勝利を記録。そして350ccクラスは250ccでも勝ったレッドマンが、RC172(こちらは4気筒)を駆ってシーズン8戦全勝のパーフェクトウインを決めたという、歴史に残るレースでもある。
実はこのレッドマンの快挙に、冒頭の写真のライダーが非常に大きな役割を果たしていたのだ。

画像: 1964年当時、鈴鹿でMFJが速報として配布していたとおぼしき、手書きされたものを青焼きでコピーしたリザルト。確かに“チェチェップ”とだけ書かれている。

1964年当時、鈴鹿でMFJが速報として配布していたとおぼしき、手書きされたものを青焼きでコピーしたリザルト。確かに“チェチェップ”とだけ書かれている。

このライダーの名はチェチェップ。当時の月刊オートバイ(1964年12月号)誌上にも、リザルトの現物を見ても、ただ「チェチェップ」(Tjetjep)としか書かれていない。国籍はインドネシア。日本語で検索しても情報は得られなかったが、「Tjetjep」で検索するとインドネシアのWebサイトがヒットする。それらの情報によると、彼のフルネームはTjetjep Euw Yong、もしくはTjetjep Heriyanaで、1939年生まれ。レースデビューは1954年、1960年代からはインドネシアだけでなく東南アジア各地のレースで活躍。その後、1974年に負傷してレースから引退したとある。主な戦績としては、1970年、四輪で有名なマカオグランプリの二輪レースでヤマハTR2に乗って3位になったことが挙げられている。しかし、日本GPに関する記述も見つからなかった。
いずれにせよチェチェップは、インドネシアの二輪レースにおける草分けの1人であり、レジェンド的な存在であるという(引退後は不遇のようだが)。

画像: 鈴鹿のホームストレートを駆け抜けるレッドマンとRC172。レッドマンは当時ホンダの絶対的エースで、1961〜1966年にかけて125ccから500ccまで幅広く出場。世界GP通算45勝、350ccクラスでの1962〜1965年の4連覇を含む6つのタイトルを獲得。1964年ダッチTTでは出場3クラス全て優勝など、圧倒的な速さを誇った。

鈴鹿のホームストレートを駆け抜けるレッドマンとRC172。レッドマンは当時ホンダの絶対的エースで、1961〜1966年にかけて125ccから500ccまで幅広く出場。世界GP通算45勝、350ccクラスでの1962〜1965年の4連覇を含む6つのタイトルを獲得。1964年ダッチTTでは出場3クラス全て優勝など、圧倒的な速さを誇った。

とはいえ当時25歳、若き日のチェチェップは国外でのレース経験がまだ少なく、鈴鹿を走るのも初めてだったはず。持ち込んだマシンはノートンの市販レーサー・マンクスの350ccモデル。50〜60年代に世界GPで多くのプライベーターに愛用されたマシンだが、非力な単気筒エンジンの不利は否めない。

というわけでこの350ccクラスの予選、ポールポジションのレッドマン&RC172のタイム2分34秒2に対して、チェチェップは3分7秒2、なんと33秒差で最下位…ちなみに50ccクラスの予選最下位、市販レーサーのCR110で走ったライダーのタイムよりも約3秒遅い。現代のMotoGPなら107%ルールで予選落ちなんだけど(121.4%)、当時はそんなものはないのでどうにか予選は通過した。

画像: MZのマシンはロータリーディスクバルブを採用する2スト水冷ツインを搭載。ライダーは当時MVアグスタのエースだったヘイルウッドで、MVアグスタが注力する500ccクラスが日本GPで開催されないためMZで参戦。250ccは不調で5位に終わるが、350ccはレッドマンに次ぐ2位。そのマシンはフルスケールの350ccでなく、250ccの排気量をほんの数ccだけアップしたもの。

MZのマシンはロータリーディスクバルブを採用する2スト水冷ツインを搭載。ライダーは当時MVアグスタのエースだったヘイルウッドで、MVアグスタが注力する500ccクラスが日本GPで開催されないためMZで参戦。250ccは不調で5位に終わるが、350ccはレッドマンに次ぐ2位。そのマシンはフルスケールの350ccでなく、250ccの排気量をほんの数ccだけアップしたもの。

では、そんなチェチェップがなんでレッドマンの快挙をアシストできるのか? それには当時のレース事情とレギュレーション、そして日本GPの特殊性が関わってくる。

現代のMotoGPは文字通り世界を転戦するが、当時の世界GPはほぼヨーロッパのみでの開催で、多くのチームもヨーロッパ各国がベース。1964年を見てもヨーロッパ外でのレースは開幕戦のアメリカGP、最終戦の日本GPだけ。そして、MotoGPは基本的に全戦参加だけど、当時はそんな縛りもなく参加するレースを自由に選べた。だからタイトルも決まるシーズン終盤はただでさえ台数が減るのに、まして遥かに遠い極東の日本での開催ともなれば、多くのチームは出場しないのだ。

1964年も鈴鹿までやって来たヨーロッパのチームは、マイク・ヘイルウッドを擁して250cc・350ccクラスに出る東ドイツのMZだけ。あとはホンダをはじめとする日本のメーカー系ワークスチームと、日本国内からのスポット参戦。そこにインドネシアからチェチェップも加わる。しかし、この年の決勝レースを走ったのは50ccクラスが5台、最多の125ccクラスでも14台、250ccクラスが8台という寂しさ。そしてチェチェップがエントリーしていた350ccクラスも、わずかに6台だった。

画像: 1964年日本GP・350ccクラス、決勝スタートのまさにその瞬間! 確かに6台しかいない…。当時は押しがけスタートで、ポールポジションのゼッケン10、レッドマンがいち早く駆け出している。一番左のゼッケン23がチェチェップ。

1964年日本GP・350ccクラス、決勝スタートのまさにその瞬間! 確かに6台しかいない…。当時は押しがけスタートで、ポールポジションのゼッケン10、レッドマンがいち早く駆け出している。一番左のゼッケン23がチェチェップ。

ここで「6台」というのが鍵になってくる。そう、当時レースが世界GPとして成立するには6台が走ることが求められていたのだ。だから同じ日に鈴鹿で行われ、ホンダのラルフ・ブライアンズがRC114に乗って優勝している50ccクラスは、エントリーしていたスズキチームの4台が、すでに第10戦でタイトルを決めていたこともあって欠場。決勝を5台しか走らなかったため、世界GPとは認められていない。さらにいえば世界GPの日本初開催だった前年にも、3台しか集まらなかった350ccクラスが不成立になっていた。

画像: 練習走行中のドゥドゥシグ。この後に転倒を喫して肩を骨折し、ついに決勝を走ることなく終わる。マシンは大きなカウルを装着していて分かりにくいが、やはり4スト単気筒エンジンを積んだイギリスの市販レーサー・AJS7R。

練習走行中のドゥドゥシグ。この後に転倒を喫して肩を骨折し、ついに決勝を走ることなく終わる。マシンは大きなカウルを装着していて分かりにくいが、やはり4スト単気筒エンジンを積んだイギリスの市販レーサー・AJS7R。

画像: インドネシア勢は250ccクラスにも1人、サルシトというライダーが鈴鹿を走っている。これはサルシトのマシンで、タンクにはYDS-2とあるがヤマハの市販レーサーTD-1。ちなみに予選は3分10秒9で最下位、決勝は1周でリタイア。

インドネシア勢は250ccクラスにも1人、サルシトというライダーが鈴鹿を走っている。これはサルシトのマシンで、タンクにはYDS-2とあるがヤマハの市販レーサーTD-1。ちなみに予選は3分10秒9で最下位、決勝は1周でリタイア。

1964年の350ccクラスには実はもう1人、インドネシアのドゥドゥシグというライダーもいた。しかし練習中に転倒して負傷欠場したため、決勝のグリッドに並んだのは結局成立ギリギリの6台。もしチェチェップまで欠場していたら、レッドマンの輝かしい鈴鹿での凱旋完全勝利は、世界GPの歴史から消えていた! 全く大きなアシストというほかないわけだ。

だからなのか、チェチェップたちが「このレースを世界GPとして成立させるために雇われた」という説がまことしやかに語られているが、真偽のほどは不明。アシストになったのは確かだし、状況証拠的にはクロっぽい。しかし「誰がいつ雇ったんだ? 資金の出所は?」「国内のライダーでいいんじゃないか?」など、いろいろ疑問も浮かぶ。何か“大人の事情”があったのか、あくまで純粋な世界GPチャレンジだったのか。もはや半世紀以上前の話、当事者から真相を聞くのも難しそうだ…。

画像: 鈴鹿を走るチェチェップの勇姿! このレースでオートバイが撮影した写真の中で確認できている彼の走行写真は、大きくトリミングされて鮮明さを欠く、オートバイの誌面にも使われたこのカットだけ。

鈴鹿を走るチェチェップの勇姿! このレースでオートバイが撮影した写真の中で確認できている彼の走行写真は、大きくトリミングされて鮮明さを欠く、オートバイの誌面にも使われたこのカットだけ。

そうそう、はるばる鈴鹿にやってきて予選もなんとか通過し、インドネシア初のGPライダー(多分…)となったチェチェップ。肝心の決勝レースはどうなったのか? 当時の月刊オートバイ誌上のレースレポートによると、レースのスタートから大きく出遅れて、その後4ラップ目にピットに戻りトラブルでリタイアしたとある。その時すでにトップを争うレッドマンたちから、ほぼラップ遅れにされかかっていたようだ。そんな具合だからなのか、当時の月刊オートバイが取材した写真には、練習や予選も含めて、残念ながらチェチェップが走っている姿を捉えたものがほとんどなかった…。

今も昔もトップライダーやワークスマシンが注目を集める、華やかに彩られた世界GPの歴史の影には、こんな無名のライダーも確かにいたのだ、というお話でした。

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