ドボドボっという耳慣れない音で目を覚ました。
テントの中でスマホを見ると午前2時を過ぎている。ゲップのような音も聞こえる。
テントから出る。空が異様に明るい。というか、キャンプ場全体がやけに明るい。満月が煌々と輝いている。
「なんでここにいるんだよ……」ため息が出る。
テントの3メートル後ろには、牛の群れがいた。
当たり前だけどひたすら一般道! 志賀草津道路を目指す!
9月の頭、少し遅めの夏休みをとった。相棒はCT125・ハンターカブ。4泊5日の旅は、真夜中の街道ランから始まった。本当は朝方に出発するつもりだったが、ワクワクして上手く寝付けなかった。長旅の前夜はいつものことだ。
東京都心から、たんたんと幹線道路をつないでいく。CT125・ハンターカブのギアは、ガチャコンとカブ特有の音を立てる。
ギアの入りはとてもスムーズで、感触も心地いい。ただ、まともに乗るのは初めてで、どうしても2速から1速に落とすときの呼吸がつかめない。失敗すると強烈なエンブレがかかり、肝を冷やす。
まあ、長い旅のなかで馴染んでくるでしょ、気楽な一人旅、せかせかしてもしょうがない。シフトダウンが噛み合う回転数を探りながらマイペースに進んでいく。
街を離れると、もわっと緑の匂いが立ち込める。気づくと周りは田んぼとなり、夏の夜の香りに包まれた。
夜中から走り続け、お昼には志賀草津道路に着いた。
渋峠や頂上付近の天気は残念ながら霧雨。群馬県側は雨で、長野県側は快晴。尾根伝いのスカイラインはこれがあるから面白い。
キャンプ場へ入ったのは14時ごろ。
標高は1500mほど。キャンプ好きには知られた絶景の「カヤの平高原キャンプ場」だ。
「この前の週末は芋洗い状態だったんだけどね」と管理人さんはいうが、この日は平日でキャンパーは数組しかいない。ほとんど貸し切り状態だった。
キャンプをはじめてからおよそ17年、ここは過去最高レベルのロケーションだ。キャンプサイトの奥が牧場となっており、仮にどんなに混んでいてもこの景色はいつも変わらない。
牛たちはのんびりと草を食む。近くに寄れる場所へハンターカブを移動し、写真を撮った。「テントのそばに来てくれるとありがたいんだけどなあ」どうやら牛は日陰を好むらしい。
テントを立てて、何となくマットに横になるといつの間に眠っていた。
猛烈な雨音で目が覚める。外はまだ明るい。猛烈な通り雨だ。
急いでテントの外に出していた道具や椅子を取り込む。
そのときに大きなオマケをいただいた。
おそらくブヨ。キャンプ場につくなり虫よけスプレーをたっぷりと噴霧したのだが、雨できれいさっぱり流された。その隙を虫は見逃してくれない。
わずか5分ほどの間に脚と首、計15カ所もやられた。液体ムヒは気休めにしかならず、結局掻きちらし脚は血だらけ、爪の間は凄惨な事件後のような有様となった。
何よりも痒さが勝る。夕食などまともに作る気になれない。
「これを持ってきてよかったぜ」
バッグからホンダ社食のカレーうどんを取り出した。うどんもあるけど、ゆでるのがめんどくさくなり、水と徳用ウインナーを足した。以上、今晩の夕食終了。しかも全然食いきれない、夕食発朝飯行き。美味しいので文句なし。おやすみなさい。
絶景キャンプ場で過ごすひとりの夜
2日目の朝、快晴だ。
今日は東京からロケ隊がやってくる。目的はこのロケーション。そして今回ホンダから借りてきたCT125・ハンターカブだ。
その模様は、9月24日に発売の『ゴーグル』11月号をご覧いただきたい。
さて、ロケ隊が去ると、またひとりの時間だ。ここはスマホの電波が入らない。受付にいくとWi-Fiが飛んでいるのだが、せっかくなので久々の圏外を楽しもう。
昨日買った食料はまだ充分残っていた。山を下りずにさっそく一杯。
しかし、あまりにも暇だ。昨日と違い、気温もグンと下がった。腕時計に備わっている温度計は19.3℃と示している。
風はほとんど吹いていない。そうだ、焚き火をしよう。
焚き火が安定してくる再びやることがなくなった。スマホが使えないと時間が長くなる、お得だ。ほどよい寒さで焚き火の温もりが心地いい。照らされるハンターカブがよりたくましく見える。
ハンターカブとの旅は、思いのほかに快適だった。
久しぶりの一般道ロングツーリング。学生時代には当たり前だったことが、33歳となったいま、とても新鮮だった。
仮に250ccで一般道ツーリングを志しても途中で誘惑に負けていたかもしれない。原付二種のロングランは腹をくくらなきゃならない。
それがよかった。ゆっくりと移り変わる景色を見ながら、じょじょにではあるが確実に自宅から離れていく。旅が点にならず、一本の線として記憶に留まる。
だからこそ金欠学生時代の旅は、いまも輝いているのかもしれない。
薪一束が完全燃焼したころ、空には分厚い雲が現れた。嫌な予感がする。通り雨が来る→虫よけスプレーの効果がなくなる→ブヨに刺される。この流れはもう嫌なんだ! 焚き火台に水を掛け、テントの中に入った。
真夜中に目を覚ますと、月明かりで大木の影ができていた。
牛は日陰を好む。人がテントから出てきても何ら驚くことなく、ある牛は草を食み、ある牛はフゴフゴと声を上げ、ある牛はドボドボと脱糞する。
テントからわずか3メートル先に牛の群れがいる非日常。それもプライスレス。
文・写真:西野鉄兵/走行写真:松川 忍