文:太田安治、中村浩史/写真:森浩輔
【コラム】青春のゼロハン(中村浩史)
バイクに乗る楽しさ、辛さ、誇りはみんなゼロハンに教わった。
パッソルを乗り回してギアつきが夢だったあの頃
僕は前ページのオータさんのちょうど10歳下。僕が16歳というと1983年のことなんだけれど、オータさんの時代にはなかった大問題があった。それが「3ナイ」。日本中の高校生はバイクに乗っちゃいけないって勢いで、僕もその例にもれず、在学中にはルールを守って、卒業式を終えてすぐに免許を取りに行ったクチです。
そんな85年3月、指をくわえて眺めていた月刊オートバイで見る世の中は、すっかりレーサーレプリカブーム真っただ中で、街中はFZ400R、VT250Fだらけ。日本で300万台もバイクが売れていた時代で、そのほとんどは原付、けれどそれはスクーターばっかりだった頃だ。
原付免許も持っていなかった僕は、近所の空き地で母ちゃんが買ったパッソルを乗りまわして、あぁギアつきに乗りたいなぁ、ってのが口癖だった。
「じゃあコレ乗れよ」って父ちゃんが貸してくれたのはスーパーカブで、違うんだよ父ちゃん、ギアつきってこれじゃないんだ、なんて笑ってた。
18歳直前で夢の原付免許を取って、最初に買ったのはCB50。バイト先の先輩が3万円で譲ってくれたもので、5000円を6回払い(笑)。キックアームが欠品で、最初に教えてもらったのは押しがけのやり方というスパルタだったけれど、僕はこのCB50で本当にいろんな所へ出かけたのだ。
アパートからバイト先への通勤をメインに、友だちの、カノジョの、センパイのアパートへ、本当に毎日のように走り回っていた。
友だちのRZ50やRG50Γには置いていかれたけれど、ながーい直線では、CBならではの伸びで、最高速度は追いついたもんね。スクーターに乗っている友だちとは、不思議とつるまなかったなぁ。
CB50は大好きだったけれど、RZ50が欲しかったなぁ。欲を言えばRZ125に乗りたくて、それでも3万円のバイクを5000円の6回払いで買うほどおカネがなかった僕は、きっとRZ125なんて買えないだろうなぁ、って考えていた頃だ。
その後に手に入れたRG250は貰い物だったし、初めてのビッグバイクも3万円の不動GS650Gを修理して乗ってた。なんだ、ずっとおカネなかったんじゃないか(笑)。でも僕の青春の1980年代って、そんなバイク乗りばっかりだったなぁ。
CB50との付き合いはどんどん行動範囲が広がって行って、アパートから片道100kmのツーリングなんてへっちゃらだった。無謀にも、このCB50で峠を走る楽しさも覚えてしまって、金曜の夜には関東の走りの名所である峠に通ったし、そこで転んだし、エンジンが止まって先輩の家まで1時間も押して帰ったこともあった。そのセンパイのアパートに『バリバリ伝説』のコミックが揃っていて、きっと奥多摩からFを押して帰るグンに近づいた気がしていたんだね(笑)。
原付免許をとってから、中型免許まで半年、その半年後には限定解除もしたけれど、ビッグバイクなんて買えないから、愛車はずっとCB50。
けれど、バイクに乗る楽しさ、辛さ、誇りは、ビッグバイクじゃなくて、CB50に教わったと思っている。
アッという間に押し掛けもできるようになったし、スムーズにギアつきを走らせて、ツーリングも転倒も、メンテナンスも修理も、カスタムも、みんなCB50が最初だった。
メカニズムも勉強したし、洗車もしたし、安い工具を買って自分で整備もした。僕のバイク乗りとしての根っこは、みんなこの時期に培われたものだと、今でも思っている。
あの頃センパイ達は「ギアつき50ccから乗り始めると上手くなるぞ」って言っていたけれど、僕は「ギアつき50ccから乗り始めるとずっとバイクが好きでいられるぞ」ってコーハイたちに伝えようと思う。
僕が原付の免許を取ってからもうすぐ40年。いまだにバイクに乗っているのは、CB50のおかげだから。
ヤマハ「RZ50」各部装備・ディテール解説
車両協力:エムズガレリ
第三京浜と東名高速道路の中間あたり、横浜都筑区にショップを構えるエムズガレリ。「ウチはなにかの車種に特化したりではなく、絶版人気車から高年式の狙い目まで、幅広く扱っています」と五十嵐マネージャー。
撮影させていただいた、奇跡のコンディションのRZ50をはじめ、人気の250ccスポーツから超人気SR400、ビッグバイクネイキッドもスーパースポーツも取り揃えてある。
文:太田安治、中村浩史/写真:森浩輔
この記事は月刊『オートバイ』2022年1月号特別付録「RIDE」に収録したものを再編集して掲載しています。