1953年、ヤマハ発動機の前身である日本楽器の幹部社員に対し社長の川上源一は、二輪業界へ参入することを伝えた。そして1955年、ヤマハ発動機株式会社設立し、1号車となる「YA-1」を開発した。
まとめ:オートバイ編集部

ヤマハ発動機の創立

プロペラを回すエンジンからスタートしたヤマハ! 

もともとオルガンなどを製造する楽器メーカーだった山葉風琴製造所(1889年創業)が、日本楽器製造株式会社となり、やがてピアノの生産量で世界一となるほどの大企業に発展した。それが突然、オートバイ用のエンジンを試作することになる。これがヤマハのルーツだ。

オートバイメーカーは、この当時、国内に300社前後もあったのだが「世界に通用するバイクをつくれば、充分に太刀打ちできる」という川上源一社長の号令でプロジェクトはスタート。第二次世界大戦中に飛行機のプロペラを製造していたヤマハは、終戦後、その工作機械を活用すること、そしてピアノのフレームを鋳造する技術を活かしながら、2スト単気筒のオートバイ用試作エンジンを完成させる。

そして1955年にヤマハ発動機株式会社を設立。そしてこの年に東ドイツのDKW125RTを範とした、YA-1を誕生させるのだ。このモデルの実力は第3回富士登山レースで優勝、第1回浅間高原レースで1~3位、第4回富士登山レースでは1~8位を占めるという大活躍で証明された。

群雄割拠するオートバイメーカーの中から一歩抜きん出るためには、レースで勝ってみせることが手っ取り早い。やがてヤマハはアメリカで行なわれた国際レース、第8回カタリナグランプリに2スト2気筒の250ccで初出場し、伊藤史朗が見事6位に入賞した。1958年のことだ。

その翌1959年には、この出走マシンのコンセプトをベースとした国産初の本格的スポーツモデル、YDS-1を発売する。1960年代には熾烈な争いとなる250ccクラスに強烈なデビューを果たしたことになる。

このモデルはモデルチェンジをくり返しながら、2スト2気筒エンジンはやがて水冷のRZ250、そしてレーサーレプリカのTZR250へと発展。息の長いモデルとして足跡を残して行く。

低い重心高と巧みなシャシーバランスから、後年「ハンドリングのヤマハ」と称されるようになるのは、まさにこのYDS-1がスタートだった。このテクノロジーは現在のモトGPマシン、YZR-M1にまで脈々と受け継がれているのだから驚きだ。ヤマハがこの時代、すでに多くの技術を身に付けていたことは、知っておいていいだろう。

日本楽器の4代目社長である川上源一氏のアイデアで、バイク産業に参入したヤマハ。写真は1957年、東京で行われたYD-1の発表会場へ向かう途中での一枚。

ヤマハ発動機の製品(1950年代)

YA-1(1955年)

当時は黒色で重厚なスタイルが一般的だったが、「YA-1」は、栗茶色のスリムなデザインを採用し、“赤トンボ”の愛称で呼ばれた。

画像: YA-1(1955年)
画像: オートバイ誌の巻頭カラーページでも紹介された「YA-1」。大卒初任給が平均1万円ほどの時代に13万8千円という価格にも関わらず、3年間で約1万1千台が生産された。

オートバイ誌の巻頭カラーページでも紹介された「YA-1」。大卒初任給が平均1万円ほどの時代に13万8千円という価格にも関わらず、3年間で約1万1千台が生産された。

画像: YA-1の実力を披露するために第1回の浅間高原レースに参加。結果は1〜3位を独占し、YA-1の実力の高さを証明した。

YA-1の実力を披露するために第1回の浅間高原レースに参加。結果は1〜3位を独占し、YA-1の実力の高さを証明した。

画像: GKデザインのスタッフがモックアップを製作しているひとコマ。YA-1の時からヤマハのバイクデザインに深く関わっていた。

GKデザインのスタッフがモックアップを製作しているひとコマ。YA-1の時からヤマハのバイクデザインに深く関わっていた。


YC-1(1956年)

画像: YC-1(1956年)

1956年の東京モーターショーで発表したYA-1の上位機種がYC-1で排気量は174cc。赤いタンク以外は「シャンゼリゼの濡れた舗道」をイメージした灰褐色を採用。

オートバイ誌に掲載されたヤマハの広告。手前はYC-1、奥がYA-1。当時から他社とは一味違うモダンなデザインの広告だった。


YD-1(1957年)

日本人の体格に合わせたコンパクトサイズで「日本人の250」をキーワードにしていた。ヤマハ初の2気筒エンジンを搭載。

画像: YD-1(1957年)

YDS-1(1959年)

第2回浅間火山レースに参戦したスポーツモデルで、国産初の5速トランスミッションを搭載し、レース用パーツも用意された。

画像: YDS-1(1959年)

1959年に登場したYA-3の広告。「セルでスタート!」と記載されているようにセルボタンを採用した125ccのビジネスバイクだった。

ヤマハ発動機の歴史 簡易年表(1950年代)

1955年
ヤマハ発動機株式会社設立、初代社長に川上源一が就任
モーターサイクル第1号機「YA-1」(125cc)の生産開始
第3回富士登山レースの125ccクラスで「YA-1」が優勝
第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間高原レース)のウルトラライト級(125cc)で「YA-1」が1~3位を独占
1956年
第4回富士登山レースの125ccクラスで「YA-1」が1~8位、250ccクラスで「YC-1」が1~5位を独占
ヤマハ発動機(株)浜松研究所を設立
1957年
第2回全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間火山レース)のウルトラライト級(125cc)で「YA Racer」が1、2、5位、ライト級(250cc)で「YD Racer」が1~3位を獲得
1958年
アメリカ・第8回カタリナグランプリレースに国際レース初出場で6位入賞
「YA-2」がモーターサイクル初のグッドデザイン賞受賞
1959年
国産初の本格的スポーツモデル「YDS-1」を発売
静岡県浜名郡浜北町(現・浜松市)に天竜テストコースを開設

月刊オートバイの裏表紙から見るヤマハが1959年に売りたかったバイク

1959年1月号

画像: 1959年1月号

1959年2月号

画像: 1959年2月号

1959年5月号

画像: 1959年5月号

1959年10月号

画像: 1959年10月号

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