ホンダCBの歴史は、メーカーとしての世界戦略の成功の他に、レースでの栄光も共にあった。「走る実験室」という言葉の通り、レースから市販車へとフィードバックされるテクノロジーも数多く、サーキット、公道両方において世界を席巻していく礎となっている。
「レースは走る実験室」。故・本田宗一郎氏の有名な言葉だが、ホンダはその創生期からレースをマシン開発、宣伝の場ととらえ、マン島TTレースや世界GPに積極的にチャレンジ。ワークスRCシリーズを擁して60年代の世界GPシーンを席巻し、66年には50、125、250、350、500の全クラスでマニュファクチャラーズタイトルを獲得する快挙を成し遂げる。マン島TTレース挑戦の物語は、NHKの人気番組「プロジェクトX」でも採り上げられたが、当時としてはそれほど壮大なプロジェクトだったのだ。
そんなホンダの姿勢はCBの時代に入っても受け継がれ、69年に発売されたCB750FOURは、その年の鈴鹿10時間耐久レースや翌年3月のデイトナを圧倒的な強さで制し、格好のチューニング素材となって世界各地のサーキットで活躍する。CBのチューニングの一環として、ヨシムラやカーカーの集合マフラーが世に誕生したのも、72年のアメリカで開催されたデイトナ200マイルレースが最初と言われている。
その後、2サイクルマシンの台頭によって、CBの活躍の場はヨーロッパの耐久レースやアメリカのAMAスーパーバイクにシフト。74、75年の耐久レースはカワサキZ1が圧倒的な強さを見せており、それに対抗すべくホンダは76年からワークス体制で参戦。そのために開発されたマシンがCB750FOURをベースにDOHC化したRCBで、76、77、78年と3年連続でチャンピオンを獲得。その圧倒的な強さから「不沈艦隊」とまで称された。
さらにCBレーサーの活躍は続き、CB900Fをベースにした新型ワークスマシンRS1000にスイッチした79、80年もタイトルを奪取。当時の耐久レースはまさにホンダを中心に回っていたのだ。そのCB900Fは、RCBのノウハウのフィードバックを受けて78年末にデビューしたマシン。RSC(HRCの前身)からレース用キットパーツがリリースされたこともあって、鈴鹿8耐で多くのプライベーターがこのマシンをチョイスする。また、AMAスーパーバイクレースでは、このCB900Fベースのワークスマシンを後の世界GPチャンピオンとなるF・スペンサーがライディングした。80~82年にかけて、カワサキのE・ローソン、W・レイニー、ヨシムラスズキのW・クーリーらとデッドヒートを繰り広げた。
同時期、CB1100Rというマシンが限定販売されているが、これはオーバー1000ccでも出走可能なマン島TTレース用に開発されたマシン。アルミタンクやシングルシートを標準装備した「市販レーサー」と言っても過言ではないマシンだった。
国内でも、82年末に登場したCBX400Fが、ライバルメーカーを巻き込んで空前のロードレースブームを呼び起こすなど、大きな足跡を残す。
そして、レースのレベルアップに伴ってホンダは並列4気筒のCBから、水冷V型4気筒モデルへの移行が進み、空冷4気筒のCBは第一線から退いていくのである。
日本のバイク遺産Vol.1(モーターマガジン社刊)より
モーターマガジン社
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