きのう5月22日に発表された、ヤマハの2019年鈴鹿8時間耐久ロードレースの参戦体制がチョー話題になっています。そう、なんてったって、あの伝説の「資生堂テック21」カラーが復活するのです! ネットの反響は言うに及ばず、びっくりしました、もう10年近く連絡も取っていなかった友人(52歳 バイクに乗らなくなって20年)から急に電話があって
「あ、なかむら? テック21また出るんだって?スゲーな、懐かしいな」って(笑)。その友人、平さんとかケニーも出るし、資生堂のテック21ブランドの男性用化粧品も復刻されるっていう、あるあるすぎる劇的早とちりをしてましたが、いま発表されているのは
①資生堂がヤマハにTECH21カラー、ロゴ使用を許可してくれた
②資生堂「テック21」シリーズ商品の復刻、再発売の予定はない
③当日、ケニーさん、平さん、エディが来てくれるかまったく白紙
ということでした。
株式会社 資生堂とヤマハ発動機株式会社という、こういった大企業間のすり合わせは数か月、または1年近くの時間をかけて進めるのが普通ですから、まずはこのカラーリングが復活することは決まった、それ以外のことはこれから、ってことなんだと思います。
そこで、ここで「いまさら」なことを。
筆者ナカムラは1967年3月生まれの、今年52歳。あの時、つまり1985年7月28日に僕は18歳でした。ってことは、あの鈴鹿8耐をきちんと見ていたのは、例外はあるだろうけれど、中学生以上として、あのとき12歳――34年前だから、今はもう45歳以上、ってことになる。それじゃもう、いまの若いファンはきっと知らないでしょう。
「テック21……あ、あの紫色の…平さんが乗ったヤマハの8耐マシンですよね!」
そんな理解が大半になっちゃってるのかもしれない。
ここは、2019年の鈴鹿8耐をガッチリ楽しむために、まずは「ヤマハTECH21レーシングチーム」の伝説をご紹介しましょう。
「ヤマハTECH21レーシングチーム」は、ヤマハがワークスチームを仕立てて鈴鹿8耐に参戦した、初めてのチームだと言っていいでしょう。ヤマハと鈴鹿8耐といえば、公式には1984年がスタート。この年はXJ750Eをベースに、ワークスマシンXJ750Rを作り上げ、上野真一/河崎裕之組が「Teamレーシングスポーツ」からエントリー。
このチームは実質的なワークスチームではあったものの、83年以前に量産車の開発チームがマシンを製作、8耐に参戦していた体制を強化したくらいのもので、ワークスチームというアピールはさほどなかったように思います。
そして、このレースの約1カ月半後のケルンショーでFZ750がデビュー。ヤマハが4ストロークビッグバイクに本格参戦しはじめた、記念すべき時期でした。
そして1985年。この頃から日本のレース界は、急激に盛り上がりを見せ始めていました。アメリカではAMAスーパーバイク、ヨーロッパでは世界耐久選手権と、4ストローク市販モデルをベースとしたレースが人気を見せ始め、日本でも「TT-F1」クラスが全日本選手権に誕生。その初代チャンピオンは本誌でもおなじみ、八代俊二さんです! もちろん世界グランプリも世界的に盛り上がりを見せ始めていた時期で、あのフレディ・スペンサーがWGP500/250ccクラスのダブルタイトルを獲得したのが、ちょうど1985年でしたね。
その1985年に誕生したのが「ヤマハTECH21レーシングチーム」です。ヤマハは84年のケルンショーで、まったく新しい750ccスポーツモデルFZ750をデビューさせ、85年には全日本選手権TT-F1クラスにもエントリー。世界的に「4ストロークのヤマハ」やFZ750をアピールする格好の舞台が鈴鹿8時間耐久レースだったというわけですね。
ヤマハが鈴鹿8耐用に開発したマシンは、TT-F1レーサーをベースに大幅にポテンシャルアップを図ったFZR750。5バルブジェネシスエンジン、アルミデルタボックスフレーム、フレッシュエアインテークといったキーワードが飛び交った、ヤマハ初の4ストロークワークスマシンで、鈴鹿8耐のライダーに日本一速い男、平忠彦を起用するのも自然の流れでした。
平さん(なんとなく「平」って呼び捨てしづらい存在なんですよねぇ だから平さん、でw)は、全日本選手権GP500クラスのタイトルを83~84年と連続して獲得。85年には3年連続チャンピオンを狙い、もちろん本職はGP500でしたが、ヤマハは日本のエースとして平さんの起用を決定。後に平さんは3年連続チャンピオンを決めるのです。
そして! その平さんのパートナーに選ばれたのが「キング」ケニー・ロバーツ。ケニーさん(平さんと同じ理由でケニーさんw)は1983年のグランプリシーズンを最後に、アメリカのレースなどに単発で出場していたことはありましたが、世界グランプリGP500クラスを78年から3年連続で制し、83年に現役を引退。この時すでに「伝説の男」で、ヤマハは、その時に持っていた最高のカードを切って、鈴鹿8時間耐久レースに臨んだわけです。
平さん、ケニーさんとFZR750の組み合わせは、決勝レースまでに様々なドラマや紆余曲折がありましたが、それはまた別の機会に。ケニーさんにあの時のことを尋ねると
「4ストロークのマシン? 耐久レース? なんでそんなものに俺が乗らなきゃいけないんだ?ってずっと言ったんだ」って(笑)。ヤマハのスタッフのご苦労は、想像を絶するものだったでしょう。
そして1985年の鈴鹿8耐。ケニー・ロバーツ/平忠彦組というドリームチームは、公式予選でポールポジションを獲得。ホンダ期待の星、ワイン・ガードナーが出したコースレコード2分20秒799をクリアして、ケニーさんがただひとり2分19秒台にタイムを入れ、2分19秒956でポールポジションを獲得。ちなみにこの時の予選3番手が、日本のTT-F1チャンピオン八代さんで、タイムはケニーさんから2秒1遅れの2分22秒113――。ケニーさんとガードナーが飛びぬけていかにスゴかったかを物語るエピソードです。
そして決勝レース、ル・マン式スタートでマシンに駆け寄ったのはケニーさん。しかし、スタートしようにもエンジンが始動せず、ほぼ最後尾からのスタート。しかし、そこからの追い上げがすさまじく、60台が出走したこの年の8耐を、35番手でオープニングラップを終了。それから4周目には14番手、10周目には6番手に上がり、20周目にはとうとう2番手に浮上します。この時、トップを走っていたのがガードナーでした。
第2走者はケニーさんからマシンを受け取った平さん。2番手でコースインした平さんは、30秒以上前方を走るガードナーのペア・徳野政樹さんを追い、ついに38周目にパス! 開始1時間32分で、とうとうトップに浮上するのです。
トップはヤマハ、それを追うホンダ、という図式の中、ライダーがケニーさんvsガードナーになると差が縮み、平さんは徳野さんを引き離す展開が続き、ついに6時間を終わって周回数が140周を数えるころ、ヤマハはホンダを周回遅れにしてしまいます。つまり、全車ラップ遅れにしてのヤマハの独走となったわけです。
レースが7時間を経過して、ケニーさんから平さんに最後のライダー交代。平さんも順調に周回を重ね、レースの残り時間30分、181周目になったころ、平さんの乗るFZR750がスローダウン! 白煙を上げ、惰性でバックストレートを通過し、力なく最終コーナーを降りてくると、メインストレートでマシンはストップ。マシンをピットウォールに立てかけたまま、ヤマハの1985年の鈴鹿8耐が終わってしまったのです。
「原因はエンジントラブル。排気バルブの欠損でした」とは、当時のエンジン設計を担当していたヤマハの伊藤太一さん。ケニーさんの復活によるケニー・ロバーツ&平忠彦のドリームチーム結成、ケニーさんのポールポジション獲得、スタートの出遅れと、レース開始1時間半でのトップ浮上、全車ラップ遅れの快走と、終了30分前18時58分のマシントラブル――。こうしてヤマハの一大プロジェクトはドラマチックすぎる展開で幕を閉じるのでした。
この時のFZR750が、2019年のヤマハ鈴鹿8耐マシンYZF-R1のカラーリングとしてよみがえったTECH21カラーをまとっていたのです。TECH21とは、化粧品メーカー、資生堂の男性用化粧品ブランドの名前で、まさにこのカラー、紫というか淡いブルーというか、この色をイメージカラーに商品展開していました。シェービングクリームとか洗顔剤とかヘアムースにジェル「7つのライディングコレクション」なんて商品展開もありましたね! ボトルデザインにライディングしてる平さんが使われていたり、ひゃー、懐かしい! ナカムラ、ドンピシャ世代です!
テレビCMとか広告に平さんとヤマハのマシンがばんばん登場し、鈴鹿8耐のシーンがCMに使われたこともありました。今では信じらんないでしょ! このへん、youtubeで検索すれば出てきます。「資生堂 テック21」って検索したら当時のCMが出てきたもの。
資生堂のスポンサードが決まって、商品名をチーム名に入れ、マシンにも商品名を、となった時に、たしか当時のレギュレーションで「カウルに数字を入れる場合にはゼッケンも同じとしなければならない」というものがあったため、マシンのゼッケンが21に決まったのだ、と聞いたことがあります。たまたまゼッケン21が空いてたからよかったんですね。
人気絶頂の鈴鹿8耐、ドラマチックなプロジェクトの終焉――ヤマハの鈴鹿8耐=TECH21というイメージは、これほど強く、これほどのインパクトを残したのでした。
もちろん、ヤマハの鈴鹿8耐プロジェクトがこのままで終わるはずがありません。86年には平忠彦/クリスチャン・サロン組、ケニー・ロバーツ/マイク・ボールドウィン組が参戦するも、平さん組は4時間半ごろにマシントラブルで、ケニーさん組はボールドウィンがガス欠ののち転倒リタイヤ。87年には平さんがケビン・マギーと組むと発表されたものの、平さんが8耐直前のグランプリで負傷し、マギーと、平さんの代役として参戦したマーチン・ウィマーが優勝。平さんは「チーム監督」として初優勝を味わうことになります。
それでも平さんはまだ優勝していない――。参戦を続けるヤマハは、88年にケビン・マギー/ウェイン・レイニー組で2連勝を達成しますが、マイケル・ドゥーハン(のちのGP500チャンピオン、あのミックです!)と組んだ平さんは、またも終了11分前にマシントラブルに見舞われてリタイヤ。89年の平さんは、ジョン・コシンスキーとペアを組みますが、これも開始5時間過ぎにマシントラブルが発生。悲劇のヒーロー・平さんとTECH21カラーは8耐で優勝できない――そんなジンクスさえでき上がってしまうのです。
しかし翌90年。平さんのペアとして招聘されたのは、「優勝請負人」とも呼ばれた世界GP500クラス、4度のチャンピオンに輝くエディ・ローソン。マシンはFZR750R(=OW-01)ベースのワークスマシンで、この年のマシンのカウルには、ヤマハの、そして平さんの鈴鹿8耐優勝を祈願するファン1000人の名前が貼りこまれていました。
平さんは、鈴鹿8耐で初めてスタートライダーを務め、先行するガードナーの転倒もあって、エディさんとともにトップを快走。そのまま一度もトップを譲ることなく、当時の大会記録周回数で優勝し、ついに平さんとTECH21カラーのヤマハが鈴鹿8耐を制するのです。
1985年からスタートして、6度目の挑戦での初優勝。毎年のようにドラマチックな展開を見せて、最後の最後に優勝するなんて――。この頃、日本じゅうのレースファン、鈴鹿8耐好きは、平さんの鈴鹿8耐優勝を祈っていた、そんなムードが日本中に充満していました。
これが「ヤマハTECH21レーシングチーム」と鈴鹿8耐の、浅からぬ、いや深すぎるドラマです。
こんなストーリーを知ってから鈴鹿8耐を、そして2019年の「ヤマハTECH21レーシングチーム」を応援するのもいいですねぇ!
写真/Yamaha 中村浩史 文責/中村浩史