(※月刊オートバイ2020年1月号より)
伝説のチャンピオンが再び鈴鹿を疾走るまで
ウェイン・レイニーといえば、1990年から3年連続して世界グランプリ500㏄クラスを制した伝説のチャンピオン。
しかし93年シーズン、4連覇を目前にレース中に転倒、第6頸椎を損傷し、そのままライダー生活を引退。以後は車いす生活を余儀なくされている。
ウェイン・レイニー
1983/87年にAMAスーパーバイクチャンピオンとなり、88年からチームロバーツより世界グランプリに本格デビュー。
90年から3年連続チャンピオンとなるも、93年イタリアGPで転倒し、下半身不随の重症を負い、ライダーを引退。
88年には鈴鹿8耐も制覇。
そのレイニーが日本に来る! というニュースだけでもオールドファンにはうれしい話なのに、なんとバイクに乗るとは!
これは、同じく車いすライダーとして知られる青木拓磨の「サイドスタンドプロジェクト」(SSP)が大きく関係している。
拓磨のSSPは、なにも車いすの人にバイクに乗ろうよ、という提案ではなく、どんな困難なことだって諦めることないよ、というメッセージ。これに、レイニーが呼応したのだ。
「初めてこの話をもらったときは、僕はいいよ、って断ったんだ。あの事故から26年、その間にバイクに乗ろうとか、なんとか乗りたい、なんて気持ちはなかったからね」とレイニー。
来日も26年ぶりだ。
しかし、ここから奇跡へのカウントダウンが始まっていく。
「素晴らしい経験だった、本当に楽しかったよ」
当初レイニーは、モビリティランドの来日オファーを、日本のファンにまた会える、また挨拶したいという思いで快諾していた。
「このイベントの話をもらって、実はこんな企画がある、ってデモランを勧められたんだ。でも、僕はそんな気になれなかった」
レイニーの背中を押したのは、師匠であるケニー・ロバーツ、先輩ライダーであるエディ・ローソン。
けれど、家族は反対だった。
「ワイフや息子たちは『なぜ今更そんなことを?』って言う。ケニーやエディ、友人たちは『やろうやろう』って正反対さ(笑)。
でも、10月に誕生日が来て、59歳になった。ふと気が変わったんだろうね、『なぜやるの?』って聞かれて、『なぜやらないの?』って答えるようになった。乗る理由なんてないさ、でも乗らない理由だってないんだ」
それからは、拓磨が使用できるまでにこぎつけたフットレスト、ハンドチェンジシステムなどのパーツがUSヤマハに届き、YZF-R1に装着してテスト。
最初は上手く乗れなかったものの、何度かテストするうちに、きちんと走行できるまでになる。
それが事前に世界公開された動画だった。
「日本から送ってもらった、タクマが走行するビデオを見て、楽しそうだな、スゴい男だ、って勇気をもらったね。でも、アメリカで乗った時、特別な感情は生まれなかったんだ。またバイクに乗れる、って嬉しさはあったけどね」
そしてサウンドofエンジン当日。
「土曜の朝のうち、観客のみんなに気づかれないように西コースで練習したんだ。そうしたら、気持ちが変わってしまったんだ!」
レイニーが鈴鹿を走るのは、あの93年、シュワンツ、ビーティ、伊藤との激しいバトルを制して優勝した日本GP以来、26年ぶり!
「走り出した瞬間、思い出したんだ。鈴鹿のストレートを、ヘアピンを、スプーンをね。ライバルたちとの戦いより、鈴鹿を走ったあの頃を思い出した。ワーオ!だよ。事故をして以来、こんな気持ちになったのは初めて。自分でもびっくりするくらいの感動だった!」
そしてレイニーは、土曜と日曜、たった3周、しかも東コースだけだったけれど、26年ぶりに、鈴鹿の大観衆の前で走った!
「ひどいんだよ、ケニーとエディが僕を抜いて、置いて行っちゃうんだもん(笑)。でも、メインストレートでふたりの後ろを走って、あのふたりのバトルの輪に入りたいなぁ、と思ったけど、後ろからふたりの美しい姿を見るのも素晴らしいものだったなぁ」
ウェインisバック! けれどこのプロジェクトはいったん終了。アメリカに帰ってまた次、という気持ちにはなれないんだという。
「だって、また走るとなったら、今度はマシンのセッティングだって始めちゃうかもよ(笑)。いつかは、あの頃の500㏄のGPマシンに乗ってみたいな。まぁ、それは夢としておいておくさ」
本当に素晴らしい経験だった、最高に楽しかったよ、と語るレイニーの背後で、ケニーとエディが、そして拓磨が幸せそうな笑顔でいたのが忘れられない。
ウェイン、見ている僕らも、最高だったよ!
PHOTO & TEXT:中村浩史