※この記事は月刊オートバイ2011年8月号別冊付録を加筆、修正、写真変更などの再編集を施しており、一部に当時の記述をそのまま生かしてある部分があります。
カワサキ「500SS MACH III」誕生の歴史
2スト嫌いのアメリカ人がマッハサウンドに聞き惚れる
今、僕らが「カワサキ」と呼んでいるオートバイメーカーは、当初は造船、航空機のメーカーとして発展、二輪に進出したのは戦後、1950年代になってからのこと。それも「川崎航空機工業」として、エンジン単体生産に進出しただけで、カワサキのオートバイとしてラインアップが構築されるのは60年代に入ってから。
この頃は二輪事業からの撤退もたびたび囁かれていた。当時の国内市場では、125ccクラスが人気ナンバー1であり、125ccの実用車B8というヒット作があっても、まだ国内メーカーのほぼ最下位。ちなみに60年ごろの市場シェアは、ホンダ66%、スズキ15%、ヤマハ11%、そしてカワサキはわずか2%程度。
メグロを吸収合併したこともあり、カワサキのアドバンテージはやはり、高度な開発・生産技術が必要な大排気量車。しかし、国内にまだ251㏄以上の需要は少なく、カワサキはアメリカに活路を求める。
当時のアメリカは年間登録台数が100万台に迫るビッグマーケット。そこにカワサキは、64年に国内でヒットした125B8に続き、66年に650W1を、さらに2ストロークの250A1を投入する。
その頃、市場開拓のために海を渡ったカワサキマンがいた。Z1の父として知られる種子島 経。全米の20%を占めるカリフォルニア市場を調査し、32カ所ある旧カワサキ代理店を足でまわって得た結論は「アメリカ向けの特徴あるクルマを持ってくること、そしてメーカー直系の販売店支援を」というものだった。
種子島はアメリカのライダー気質を探るべく、現地のライダーとともにデザートライディングをやり、ダートトラック観戦を重ね、ストリートドラッグレースへも足を向ける。結果、アメリカ人が好むのは、速いオートバイである、という強固な結論を得る。しかも、それは最高速ではなく、ゼロヨン勝負。
ならば4ストロークより2ストローク、それもゼロヨン13秒以下、最高速200㎞/h以上の、今までの日本車にはない斬新なデザインの世界最速マシンが欲しい! これがマッハへのスタートだった。
現地報告を受けた明石工場では、アメリカからの要求に応え、性能検討に入る。エンジン設計は2スト設計一筋の松本博之。松本は目標とするゼロヨン加速と最高速を実現し、もうひとつの要求である1000ドル以下の価格をクリアするため、500cc以下の排気量で、2気筒より3気筒、との結論を得ていた。
白煙の軌跡を残し、世界のカワサキへ羽ばたく
250A1の2スト単気筒エンジンを並列に3連しての風洞実験が繰り返される。一時は2気筒や、中央シリンダー傾斜を起こしたV型3気筒も検討されたが、3気筒のネックとされた中央シリンダーの冷却問題にもめどがつき、試作エンジンが順調に性能を上げていったことからも、並列3気筒に一本化。もちろん、量産車世界初のレイアウトだ。
目標性能のためには、空気抵抗係数を計算して、出力58PSが必要となり、目標数値は60PS。これはリッター当たり120PS。文句なく、世界最高のハイパワーエンジンが出来上がっていくことになる。
車体担当は、カワサキにパイプフレーム技術を持ち込んだ富樫俊雄。中央シリンダーの冷却を妨げず、350A7以上の加速感を実現し、時速100マイル以上に耐えうることを開発要件としたフレームを製作し、2スト並列トリプルエンジンを搭載。ダンロップがわざわざ高速走行に耐えられる専用タイヤを用意するほどのモンスター誕生の準備が出来上がっていった。
69年春のフィラデルフィアモーターショーで全米デビューを果たしたマッハⅢは、ゼロヨン13秒、最高速度190km/hを堂々マークし、ひと足早く全米デビューを果たした、ホンダCBナナハンに並ぶほどのインパクトを持ってアメリカに迎え入れられる。
デビューから生産終了する75年までに約12万台が生産され、月産800台という目標を、最高で月産5000台という数字でクリア。カワサキの2輪事業撤退や赤字の苦悩も、すべてマッハの白煙が吹き飛ばしてくれたのだ。 (文中敬称略)