文:中村浩史/写真:堤 真一、松川忍
※この記事は月刊オートバイ2011年8月号別冊付録を加筆、修正、写真変更などの再編集を施しており、一部に当時の記述をそのまま生かしてある部分があります。
スズキ「RG250Γ」誕生の歴史
RZ250というスポーツバイクの登場がRG250Γという新しいレーサーレプリカを呼んだ
異論は承知の上で言うならば、日本のスポーツバイクの歴史を変えたのは、1980年に発売されたヤマハRZ250だっただろう。アメリカを中心に、世界的に大気汚染が社会問題となり、2ストロークというエンジン自体の存亡が危ぶまれたとき、当のヤマハも、最後の2ストロークモデルのつもりで開発したモデルがRZだった。
そのRZは、発売されるや生産が追いつかないほどの人気モデルとなった。今では珍しくないことかもしれないが、発売前にオーダーが入り、いざ発売が開始されても、ヤマハの販売店に「売るRZがない」という現象まで引き起こしてしまった。
大げさに言えば、RZの出現がヤマハというメーカーの勢いさえ増してしまったのだ。そしてRZの登場は、当然のようにライバルの出現を呼ぶ。
いち早く呼応したのが、当時ヤマハと「HY戦争」を繰り広げていたホンダだった。1970年代まで間違いなく国内バイクメーカーの盟主だったホンダは、RZ発売以前からファミリーバイククラスでヤマハに大きく迫られ、このRZ登場にもかなり神経をとがらせていたのである
打倒RZとして登場したのは、水冷4ストロークV型2気筒エンジンを搭載したVT250Fだ。VTはRZに対抗した上、さらに250ccクラス全体の人気拡大も果たしていくのだ。
そしてRZの成功に刺激を受けたのが、それまでの250ccクラスで人気を博していたRG250を擁するスズキだった。HY戦争の当事者でなかったとはいえ、その余波を受けていたスズキはホンダやヤマハに数の論理では対抗できないと悟るや、1983年から3年計画の「一発必中」計画を策定。それが1983年のRG250Γ、1984年のGSX-R(400)、そして1985年のGSX-R750である。
その3年計画の第一弾となったRG250Γは、RZに対抗するためにRG250のエンジンの水冷化からスタートした。さらに、商品性や登場のインパクトを強めるべく、当時の世界グランプリロードレースでメーカータイトルを連覇していた2ストロークロードレーサー「RGΓ」のネーミングをつけることを決定。そこにレースグループも呼応した。「RGΓの車名を使うならば、半端なものでは困る」との積極的なゲキが飛ばされたのだ。