カワサキ初の4気筒ビッグバイクとして登場したZ1は進化を続け、直系最後のモデルといわれる1985年のGPZ1100では120PSをマークするまでになっていた。エンジンの高出力化が進み始めていた80 年代のはじめカワサキがひとつの決断を下す。それが「10年目のZ1」。ニンジャであった。

この記事は月刊オートバイ2011年8月号の別冊付録記事を加筆修正しています。
文:中村浩史/写真:長野浩之、松川 忍/車両協力:テクニカルガレージRUN、AC サンクチュアリー

カワサキ「GPZ900R」誕生の歴史

巨大化した900スーパー4、Z1を刷新。次世代キングを目指した世界戦略モデル。

画像: KAWASAKI GPZ900R 総排気量:908㏄ 発売年月:1979年4月 輸出車

KAWASAKI GPZ900R
総排気量:908㏄
発売年月:1979年4月
輸出車

「カワサキ」というブランドがオートバイ市場に登場したのは、1960年代に入ってからのことだ。川崎航空機は1960年に業務提携を結んだ「メグロ」を1964年に吸収。1960年からメイハツ、カワサキ、メグロの3ブランドでラインアップしていた時代が続いたが、すべて「カワサキ」のタンクマークを装着したのは、実に1965年になってからのことだった。

カワサキが積極的に活動を始めたのは、4ストローク650ccツインのW1、2ストローク250ccのA1サムライを発表し、アメリカ進出に打って出た1966年。ホンダが「世界戦略車」CB750FOURを発売した1969年には、同じく世界戦略車として2スト3気筒、マッハⅢこと500SSを発売。世界的な4スト化の流れに沿って、初めての4ストビッグバイクとして発売したのが1972年の900スーパー4、つまりZ1だ。

1960年代に世界最強を誇ってきた英国車に代わって、ホンダCB、カワサキZ、スズキGSといった日本製4スト4気筒が完全に世界市場をリードするようになった1970年代は、日本車がさらに切磋琢磨を繰り広げ、性能競争へ突入していった時代でもあった。

ライバルよりも新しく、より速く、よりハイパワーであることを至上命題とした世界の盟主争い。カワサキは900ccでスタートしたZ1が、1976年に1000ccへと排気量を拡大してZ1000へ発展。Z1000Jで大掛かりな設計手直しを受けながら、最終的にはフューエルインジェクションを装着、1100ccまでスープアップされたGPZ1100となる。

903ccだった排気量は1089ccへ、82PSだった最高出力は120PSへとアップし、230kgだった乾燥重量は244kgに。パワーアップももはや限界で、あまりにも巨大化しすぎてしまった。エンジン、車体を含むブランニューは必然だった。

試作モデルからファイナルスケッチへの流れ

画像: ファイナルスケッチ以前に製作されたノンカウルの検討用試作モデル。ステップからリアまわりには市販モデルの面影を感じさせる。

ファイナルスケッチ以前に製作されたノンカウルの検討用試作モデル。ステップからリアまわりには市販モデルの面影を感じさせる。

画像: ファイナルスケッチで、フルカウルを装着しながらエンジンを見せる造形を目指していたのがよくわかる。

ファイナルスケッチで、フルカウルを装着しながらエンジンを見せる造形を目指していたのがよくわかる。

まず決まったのは、再び世界最速のオートバイを作ろう、ということ。あのZ1開発時と同じ明快ながら困難な目標だ。軽量コンパクト化を求めたオールニューエンジンは、カワサキがZ1から積み重ねてきた伝統を踏襲した直列4気筒に決定し、ハイパワーエンジンの宿命である発熱対策のために水冷方式が選ばれた。

排気量は、まさかの900cc! Z1誕生から10年後にデビューするブランニューモデルに、Z1と同じ排気量を与えたのだ。

アメリカ・ラグナセカで衝撃のデビューを飾ったニンジャ

1983年12月。アメリカ・カリフォルニア州モントレー市にあるラグナセカ・スピードウェイでニンジャ・GPZ900Rの発表試乗会が開催。11カ国、150人あまりのメデイアが集まる中、ウェイン・レイニーがデモンストレーション・ランを行い、モントレー リージョナル空港の滑走路で各国のライダーが走るゼロヨン大会と続いた。

画像: 月刊オートバイ誌1983年3月号より。

月刊オートバイ誌1983年3月号より。

ここで最速タイムを記録したのはアメリカのドラッグレースで活躍する“ピーウィー”ジェイ・グレアソン。風速5mの逆風を物ともせず10秒89を叩き出してみせた。これ以前に、ロサンゼルスのカールスバットで10秒559をマークしており、その驚くべき速さによりニンジャの名を世界に知らしめた。

最先端として登場し、スタンダードへ昇華した

GPZ900Rの車体はダウンチューブを持たない軽量なダイヤモンドフレームに、アルミシートレールやアルミスイングアームを組み合わせ、ユニトラックサスペンション、アンチダイブフロントフォーク、フロント16インチホイールなど、当時では最先端の技術をフルに投入。エンジンにも車体にも、新たに世界最速を狙うブランニューに相応しいスペックが与えられていた。

最高速は245km/hと発表され、ラグナセカサーキットで行われた発表試乗会では、ゼロヨン10秒台を軽々とマークし、世界の新しいベンチマークモデルとなった。ペットネームは当時アメリカでヒットしていたTVドラマ「SYOGUN」(将軍)からヒントを得たといわれるNinja(忍者)。そして、ニンジャはアメリカ、ヨーロッパで爆発的な人気を得た。

画像1: カワサキ「GPZ900R」誕生の歴史

ビッグバイクといえば空冷大排気量のツーリングモデルが当たり前の時代、水冷900ccのニンジャの登場はセンセーショナルなものだった。当時、ホンダはいち早くVF1000Rをはじめとした水冷V4シリーズをラインアップしていたものの、ニンジャの先行ライバルといえば、1100カタナやFJ1100といった空冷大排気量モデル。トップモデル=オーバー1000ccという時代に、900ccのコンパクトな水冷4気筒エンジンを搭載したオールニューモデルが登場したのだ。

ビッグボディからコンパクトフォルム、フロントは18インチホイールから16インチ、そしてエンジン冷却方式も空冷から水冷へと、大げさではなく、時代がひとつ動いた瞬間だった。「6000回転からの力強さは、いかにもカワサキらしいZ1の伝統の味があり、速いマシンをさらに速く感じさせる。

画像2: カワサキ「GPZ900R」誕生の歴史

ハンドリングは、アンチダイブサスがフロントの沈み込みを適度に抑え、そのまま16インチタイヤの特性を活かしたクイックなコーナリングに入れる。900ccという排気量を感じさせないビッグバイクだ」(本誌1984年3月号より抜粋)。

GPZ900Rは1984年のA1から2003年のA16までの超ロングセラーとなる。レプリカ的な味つけは一切せず、ライポジ、車体の剛性バランスなどは常に公道主体。あらゆる場面で、最高かつ最強のロードスポーツを求めることがニンジャのプライドであった。

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