まとめ:オートバイ編集部/写真:海保 研(フォトスペースRS)/取材協力:カワサキプラザ神戸兵庫
「ホンダのナナハンに追いつき追い越せ。それが当時、唯一無二のキーワードやった」
その頃、清原明彦はテストライダー16年目。テストライダー陣のチーフだった。
「その頃、ぼくはH2のテストをやっとったんだ。アメリカで発売していたマッハが、どうもハンドリングがおかしい言うてユーザーの声が上がって、それの修正にね」
キヨさんこと清原明彦さんは、1961年に川崎航空機工業(現在の川崎重工)に15歳で養成工として入社。3年の養成期間を終えると、量産工場への配属が予定されていたのに、いざ配属の時に「テストライダーにしてほしい。それがダメならカワサキを辞める」とブチ上げて勝ち得た職だった。
単車乗りでは誰にも負けん、というキヨさんは、テスト課でも頭角をあらわし、ロードレースより先にデビューしたモトクロスで連戦連勝。いつしかリーダー格になっていく。やがて開発陣も「清原が言うから」と設計変更を考え、「清原はどう言っとる?」と聞きに来る。
「マッハのテストはもうやらんでいい、と当時の上司に言われたんだ。ナニ? と思ったら、4サイクルをやる、と。アメリカは、じきに4サイクルの時代になるから、大掛かりなリコールをせないかんマッハはスッパリやめる、と。すごい決断やったねぇ」
キヨさん不在で進んでいたZ1の開発だが、量産を控えた2次試作と呼べる段階でキヨさんが乗ると、どうも思わしくない。もっと軽快なバイクにしたい、と設計変更を進言したのだ。
「Z1の時はホンダのCBナナハンを4台買うたんやなかったかな。それとアグスタの4気筒と乗り比べて、アグスタはどないもならんやったけど、ナナハンは徹底的に研究したよ」
カワサキに先んじて4気筒750ccをデビューさせたホンダは、安定性に優れ、安全性の高いモデルを作り上げた。けれど、血気盛んなキヨさんは、ナナハンを「重いしパワーもない、走らん」と断じたのだった。
「もう大きな変更は出来ん、と言われた段階やったけど、キャスターとかトレールを変えてもらって、もっと軽快なハンドリングにしたんや。これが発売のあとで評価されたから、間違ってはおらんかったということよね」
谷田部の周回路、富士スピードウェイ、東名・名神、高速に国道2号線。仮ナンバーをつけたZ1を2台連ねて、北海道から九州、沖縄までツーリングテストもした。
「アメリカにも行って、AMAを走ってるライダーらとコースを走りまくったね。あの頃は、会社一丸となって、いいバイク作ろう、速いバイク作ろうって、ものづくりの情熱があふれとったよ」
キヨさんのZ1は若いファンのZ900RS
キヨさんは、Z1のことを思い出すと、あれはぼくの青春やったなぁ、と話す。発売前のテスト、そしてアメリカでの発表会でラグナセカにも赴き、現地のテストライダーと走りまくった。テストライダー人生の中でも、強烈な1台だったのだという。
「今まで乗った中でも、H1/H2とZ1は印象に残っとるよね。マッハは本当に速かったけど、上手い人しかよう乗らん(笑)。その点がZ1とは違ったわけ。Z1は誰にでも乗れる、操縦性のいい、素直なバイクやった。あんな名車、他にはないやろ」
社内テストライダーから契約ライダーとなり、全日本ロードレースにも世界GPにもスポット参戦した。ノーマルのキヨ、雨の清原、カミカゼボーイキヨハラ。
そしてカワサキ退社後の1982年には自らのショップ「プロショップキヨ」を設立。現在はカワサキプラザ神戸兵庫と改称し、キヨさんとカワサキはずっと一緒だ。
「カワサキプラザって改称したからか、今また新しいお客さんがたくさん店に来てくれる。Z900RSなんか、ようできたバイク、あれが若いみんなにとってのZ1になっていくんやろうなぁ」
カワサキプラザ神戸兵庫
旧プロショップKIYOは、大改装をして今ではカワサキプラザ店。「ショップにくるお客さんも変わったな。みな、おとなしい。そんな、お客さんといろんな遊びをやっとるわけや」(清原さん)
まとめ:オートバイ編集部/写真:海保 研(フォトスペースRS)/取材協力:カワサキプラザ神戸兵庫