【エッセイ】「大器晩成」(文・絵:東本昌平)
軽くて暖かい防寒服を着ていても、頬のあたりは冷えている。
気がつけば、凍えていないまでも頬ばかりではなく、指先も、つま先も冷たくなっているのだが、この季節、パキッと澄んだ空気の中を走るのは、気持ちいい。
暑さ寒さも個人差があるのだろうが、一般の人と比べると、バイク乗りはとりわけ頓着しないようだ。
「海に行く」
「えっ、今からか?」
午前3時を回ったところで思いたった。
2月の夜明けは、まだ遅い。
「バイクで行けんの?」
「オレのCBならすぐだ」
「バイクって……寒くないのか?」
「いやなら留守番しててもいいぜ」
ヤスは、女にモテようと涙ぐましい努力をしてみるが、つづかない。
この半年、一週間ごとに将来なりたい職業がころころかわる。先々週はカメラマン。先週は新聞記者、そして今週はプロゴルファーだ。ジャンルは問わない、らしい。
「おい、決めたよォォ! 俺プロゴルファーになるワ!」
「ヤスゥッ、新聞記者になるんじゃなかったのかよォ?」
「ああっ面接に行ったんだけどさあ、なーんか、俺にはむかないような気がしてよォ」
そんなことは、はじめからわかっている。
「ほら見ろよォォ! もう豆ができてんだぜ」
と誇らしげに手のひらの貧弱な豆を披露する。
「てェ! どうせそこの通りの打ちっぱなしにでも行ったんだろう」
「ではははーっ! わかるゥゥ!? もう3日目なんだぜェ」
バッカじゃないの!? とは思ったが、どうせ来週になればちがう夢を見ているはずだ。
ヤスは、小学生のとき祖母に言われた「あんたは大器晩成だからねェ」というのを信じていて、ことあるごとに「オレはよう、大器晩成だからよォ」と、なにをやってもモノにならない自分に自信をふかめているからしまつに悪い。
女を口説くのも大器晩成の一点張りだ。意味わかってんのか?
それと「オレがバイク乗ってりゃなァ!」と、バイクさえあればモテると思ってか、俺の顔を見るたびに「そのうち絶対バイクの免許取るからよォ!!」と言うのだ。
その頃は、金もなければ防寒という観念もなく、ジーパン二枚はいてダッフルコートをはおるくらいで、ヤスはペナペナのスイングトップに、ツンツルテンのコーデュロイパンツで、グローブすらない。
寒い!
信号待ちのたびに、ヘッドにグローブを押しつけるが、その日の寒さは厳しかった。
素手をまわしているヤスに、俺のダッフルコートのポケットに手を入れるといい、と教えたが、「ううう…さぶい!!」とうなったきりしゃべらなくなった。
とはいえ、東京から鎌倉までは時間がかかる。もうたまらん! というほど寒いのだが、ヤスの「行けんの!?」という言葉がひっかかり、引きかえせなくなっている。こうなりゃ一刻もはやく海につくしかない。
猛然とスピードを上げれば上げるほど、体感温度は下がってゆく。びょおびょおと切る風は冷たく体に刺さり、東の空が赤く明けてくると、なおいっそう寒さが増してくる。
頭の上はまだ暗く、コバルトだ。
ついた海は白波が立ち、ひとっこひとりいない。
ヤスがふるえながら、手が痛いというので見ると、風にさらされたらしく、両方の手首が赤黒く変色していた。
「うおーっ! なにこれ? 手首くさるぞ!」
「だから寒いって言ったのに、止まらないんだもん!」
「そりゃ寒いったって限度があんべェよお!! こんなになるまでガマンしてたのけェ!?」
「なーんだよ、すぐだっていうから来たんじゃないかよォ!」
「…………バッカじゃねーのォ!?」
あれから30年。ヤスはいまだに免許もバイクも持っていない。
初出:2008年2月15日発行『東本昌平RIDE9』
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