【エッセイ】「場合じゃない」(文・絵:東本昌平)
「あそんでいる場合ではない」と、はじめて記憶にのこっているのは、小学校一年のとき、ケシゴムのかすを、自分の机のくぼみにうめこんで、鉛筆の尻でモチつきをしていたときのように思う。なんの授業中だったかおぼえていないが、はじめて買った黄色いパイナップルの匂いつき消しゴムにゾッコンだったのでまちがいない。夢中になっている俺の頭の上で声がしたのと同時に、ゲンコツがふってきた。
その後もいく度となく、勉強という境遇と事情を強いられつづけたが、そんなことは知ったことではない。
笑っている場合も、泣いている場合も、独断専行を決めるのは自分でありたい。あたりまえか。ほら、いつも自分の考えは正しいと思いこんでいる奴がいるだろう、あれだよあれ。ま、俺のことだが。
五月晴れの空の下、連休でガラガラの都内を、お気に入りのバイクで流す。用もないのにあっち行ったり、こっち行ったり。
気がつけば、街並は変わり、見覚えのない建物がニョキニョキはえている。なじみの店が消えていたり、新しい道路が通っていたり。といってもここ三ヶ月くらいの話なのだが。いやいや、そんなにもバイクで遠くへ行っていなかったことにびっくりする。
「忙しいの?」
バイク乗りのマスターがやっている店のカウンターに座ったとたん言われた。
ひと月ぶりの無沙汰である。けっしてほめ言葉ではない。そりゃあ俺だって仕事をすることくらいあるのだ。
と、思ったものの、若い頃を知っている人には信じてもらえない。〆切間際でもツーリングに行ってしまうトンマぶりは、定評のあるところだからだ。
「どうしちゃったのォ!? 仕事ばっかりしてると、体にわるいよォ」
ここは普通の価値観は通らない。どんな理由があろうとも、バイクに乗らないことは怠慢である。
「ちゃんと息ぬきしてるゥ!? どう、こっち」
といって左手の人差し指と親指をあわせてみせる。こっちとはビリヤードのことで、マスターはマイキューを何本か持つほどである。そう聞かれれば、俺はこの二年と四ヶ月まったくしごいていない。
「このまえ久々にビリヤードに行ったら入らなくってさ」
この場合のマスターの言う入らないは、俺の入らないとはレベルがちがう。
「こりゃいかん、働いてる場合じゃないぞってね」そう言うマスターの顔は、神妙だ。
「働いてる場合じゃないィ?」
さすがに笑ったが、すぐに自分にかえってくる。「なになにしている場合ではない」
とは、緊急事態を示す言葉だからだ。
バイクも一日乗らないと、勘をとりもどすまで三日かかるというではないか。それなら十日乗らないと三十日かかるということか。
安全運転! とか言いながら、どうだ今日の運転は。まるでそよ風に上げる凧のように、たよりなくフガイない。
「こりゃ働いている場合ではない」である。この数日、自分にとってたいせつなものを完全に見失っていたのだ。
立ち上がれ俺!
帰って、RIDE編集長に説明すると。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」としかられる。
「………。」
もちろん、泣いている場合でもない。
初出:『東本昌平RIDE13』(2008年6月13日発行)
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上巻では月刊『ミスター・バイクBG』、月刊『東本昌平RIDE』、『キリン』シリーズの特別抜粋装画、西村 章 氏著『最後の王者 MotoGPライダー・青山博一の軌跡』の装画を収録。
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