まとめ:オートバイ編集部
本田技研工業の創立
オリジナリティをとことん追求!
1948年、資本金100万円、社長の本田宗一郎氏と従業員34人によって本田技研工業株式会社が創立された。「HONDA」ブランド初となる最初の製品は2ストロークの「A型自転車用補助エンジン」だった。
本田技研工業株式会社が設立されたのは1948年。そのきっかけは、戦後に放出された旧陸軍の無線機発電用エンジンをベースとしたものを自転車に取り付け、これがヒットしたことだった。1946年には自社製のロータリーディスクバルブ2ストエンジンである「A型」を開発、1947年に市場に送り出した。これがHONDAの原点である。
本田技研設立後には、2スト50ccの「カブF型」をリリース。エンジンのクランクケースカバーを赤く塗り、白いタンクが装着されたこのモデルは空前のヒットとなって、日本中で受け入れられた。1952年のことだ。
翌1953年には4ストOHV 90ccエンジンを、西ドイツのNSUに範をとったプレスバックボーンフレームに載せて登場させる。これが初代ベンリイであり、この「ベンリイJ型」はマイナーチェンジをくり返し、名車と呼ばれるまでに成長してみせた。3代目となる1955年の「ベンリイJC56」は排気量を125ccにアップして、フロントには当時のマン島TTレース用に開発されたというアールズフォークを採用している。これは画期的であり、注目に値することだろう。
一方、初代ドリームの登場はもう少し早い。1949年に登場の「ドリームD型」は、ロータリーディスクバルブの2スト98ccエンジンを、プレス鋼板のチャンネルフレームに搭載。これはまさしくホンダのドリーム(夢)であり、自社開発第一号となる本格的なオートバイだった。1951年には後継機「ドリームE型」が誕生。エンジンをホンダ初の4ストパワーとなる146ccのOHV4スト単気筒に換えて、過酷な路面と勾配で難所だった箱根峠で、くり返しテストされた。
このモデルは1953年にエンジンを161.3ccにスケールアップした「2E型」となり、さらに3速ミッションの「3E型」へと発展する。そして1958年、4ストOHVのスーパーカブC100がリリースされ、この小さなモデルは世界にHONDAの名前を浸透させる重要な役割を担った。さらに1959年、ホンダはマン島TTレースの125ccクラスに、4人の日本人ライダーをファクトリーレーサーのRC142で出走させる。ホンダの世界戦略は、まさにこのときがスタートだった。
本田技研工業の製品(1950年代)
カブF型(1952年)
大ヒット作となったカブF型は、白いタンクに赤いエンジン(2スト50cc)を搭載。全国5万5000店の自転車店にダイレクトメールを送り、そのうちの1万5000店で販売された。
初代ベンリイ(1953年)
4ストロークエンジンとプレスバックボーンの新フレームを採用したベンリイ。発売当初は販売に苦労したが、その性能の高さが認められ人気モデルの地位を獲得した。
JUNO K(1954年)
ホンダ初のスクーター「JUNO K」は、ボディに強化プラスチックを採用し、ルーフやセルフスターターを装備。189cc空冷4サイクル単気筒OHVは、6.5PSを発生した。
スーパーカブC100(1958年)
初代スーパーカブは、4ストローク 50cc OHV 4.3PSの高性能エンジンと自動遠心クラッチを介した3速ミッションを採用し、樹脂パーツの使用で軽量化を実現した。
本田技研工業の歴史 簡易年表(1940~50年代)
1946年
本田宗一郎が浜松市に本田技術研究所を開設
旧陸軍無線用発電機を改造した空冷2サイクルエンジンを発売
1947年
自社設計第1号製品、A型自転車用補助エンジン生産開始
1948年
静岡県浜松市に本田技研工業株式会社を設立
1949年
初の自社設計フレームを採用したドリーム号D型の生産開始
1950年
東京・京橋に東京営業所開設
1952年
自転車用エンジンを搭載したカブF型発売
1953年
東京・八重洲に社屋を建設、浜松から東京に本社を移転
1955年
二輪車生産台数日本一達成
1958年
スーパーカブC100発売
1959年
米国現地法人をロサンゼルスに設立