文:中村浩史/写真:松川 忍、モーターマガジンアーカイブス/車両協力:東本昌平
エグリ ヴィンセント「ブラックシャドウ」特徴
ホンダ・ナナハンより20年も早く時速200kmをマークした!?
オートバイの歴史上「スーパーバイク」と呼ばれたモデルはたくさんある。厳密には当時、そう呼ばれていなかったかもしれないが、要は「世界最強のバイク」こそがスーパーバイクだ。
パッと思いつくのは、ブラフシューペリアSSや、ハーレーダビッドソンJD、インディアン・スカウトに、トライアンフ・スピードツイン、ノートン・ドミネーター、BSAスターツイン。BMWのR69S、ドゥカティ750SS、そしてホンダCB750――。
1969年にホンダが発売したこのナナハンが、世界のスーパーバイクのレベルを一段押し上げてみせる。量産車で世界で初めての並列4気筒エンジンは、最高速度200km/hをマーク。それからの世界のオートバイは、打倒CBを目指して900ccのカワサキZ1が登場し、1000ccのスズキGSも登場。それから、世界のスーパーバイクは、日本製モデルを中心に回り始めることになる。
しかし、ホンダ・ナナハンより20年も前に最高速度200km/hを達成した、と言われたモデルがあった。それが、ヴィンセント・ブラックシャドウ。1948年デビュー、日本の年号で言うと昭和23年。この年、本田技研工業が創業され、天才少女歌手といわれた10歳の美空ひばりさんがデビュー、プロ野球がはじめてナイターを開催した、まだまだ「戦後」が色濃く残っていた時代だ。
1928年創業のヴィンセントは、1930年代に自社製のOHV500cc単気筒エンジンを、のちに998ccのVツインモデルを開発。シリーズAラパイドと呼ばれたそのモデルは「世界でもっとも速いスピードを与えられたモーターサイクル」というキャッチフレーズで登場。そのハイチューンバージョンがブラックシャドウだ。
ブラックシャドウは、デビュー時の最高速度テストで120MPH(約200km/h)を記録。ブラックシャドウをベースとした市販レーサーブラックライトニングは、最高速度150MPH(約245km/h)をマーク。名実ともに世界最速のオートバイとして君臨したスーパーバイクは、スナーリング・ビースト=咆哮する野獣、の名前でも知られていたのだ。
世界で初めて200km/hの壁を突破したスーパーバイクは、ホンダ・ナナハン――それは歴史上、間違った認識ということになる。その20年も昔に、55PSを発揮する1000ccの空冷Vツインエンジンエンジンが、スーパーバイクの看板を保持していた。
1948 VINCENT BLACK SHADOW
1948年式のシリーズBブラックシャドウ。ブラックシャドウはシリーズB/C/Dの3タイプがあり、1948年から1953年まで生産された。
素晴らしいエンジンと失望するフレーム
1950年代の宝石、バイク界のロールスロイスとも称されるヴィンセント・ブラックシャドウに乗ったことがある。時代はまだ昭和、ロサンゼルスのコレクターを訪ねた時に「乗ってみる?」と勧められたものだった。
ブラックシャドウ――もちろん、名前だけしか知らなかった。日本が「戦後」なんて言われていた時代に、200km/hをマークした1000ccの空冷Vツイン。マフラー側が正しい姿で、逆サイドはアグリー、つまり醜い側と呼ばれるほど、エンジン造形が美しいといわれた「元祖」スーパーバイクだ。
日本車が水冷4気筒150PSだ、2ストロークレーサーレプリカブームだのと浮かれていた、その30年も昔のスーパーバイク。存在感と妖艶なスタイリングに圧倒されながら、どこか小ばかにした……ではないけれど、慎重に乗らないと壊しちゃうかな、200km/hなんて確かスピードチャレンジのスペシャルだったような、もしくはギア比が思い切りロングだったり、なんてからくりがあると思っていたのだ。
けれど、戦後の空冷Vツインは、すばらしく滑らかにアイドリングが安定し、右足でローギアに入れてクラッチミートすると、あっけないほどスムーズにするするっと走り始めた。
逆チェンジに戸惑いながらスピードを上げていっても、このスムーズさはまったく破綻しなかった。体感的に70~80km/hで走っても、エンジンはバラつきもうなりもせず、余裕しゃくしゃく。なんてバイク! なんてエンジン! さすがに最高速までチャンレンジすることはなかったけれど、ホンダがナナハンで世界の頂点を極める30年も前に、イギリスはこんなオートバイを作っていたのか!
と同時に、車体の貧弱さもすぐに分かった。構造すらわかりにくいガーターフォークとリアショックは、前後の動きがスムーズでなく、荷重移動もわかりにくく、乗り心地も固いし、ブレーキもコントロール性が悪い。直進安定性はあるけれど、ちょっとしたギャップを乗り越えるとギシッときしむ車体は、なるほどウィドウメーカーと呼ばれただけのことはある――と。ウィドウ=未亡人、つまりスピードが出せる。
エンジンの完成度に感銘を受けながら、車体の動きに失望する。そんな気持ちを、私が生まれた頃に抱いたライダーがスイスにいた。
彼の名を、フリッツ・エグリという。
世界に存在する、約40台のうちエグリ・ヴィンセントの中の1台
「エグリフレーム」で知られるチューナー、フリッツ・エグリが、スイスのヒルクライムにブラックシャドウで参戦したことがあった。時は1960年代半ば、いいところを走りながらどうしても勝てないエグリは、オリジナルフレームの製作に乗り出すのだ。
短いメインフレームを持つエグリフレームは、翌シーズンの選手権でチャンピオンを獲得。その話を聞きつけてエグリにフレーム製作を依頼するライダーが相次ぎ、エグリは1970年にフレームビルダーというビジネスをスタート。ホンダCBやカワサキZ用のフレームも製作したのだという。
その中の1台が、このエグリ・ヴィンセントだ。エグリフレームが作られた頃には、もうヴィンセント社は廃業してしまっていて、入手できる数少ないエンジンを使用してのエグリ・ヴィンセントは、完成車として約40台が製造され、エンジンレスのフレームキットが200台ほど作られたのだという。
「存在を知ってから数年して、ようやくオーダーしたんです。それでも日本に到着するまで4~5年はかかりました」というのは、作家の東本昌平氏だ。
「スパイン」とよばれるメインフレームを太く取ったレイアウトがエグリフレームの基本形。メインフレーム径は約4.7インチ=約12cmで、形状はストレート。写真はヤマハの2ストロークレーサーTZ250用のフレーム。
ドリームバイクと呼びたくなる究極のオートバイ
「エグリ・ヴィンセントというオートバイ自体は知ってたんです。それでも1980年代中頃かな、エンジンレスでたしか70万円、それにブラックシャドウのエンジンを探してこなきゃいけない、キット車だったんです」(東本昌平)
これが前述した、エンジンレスのフレームキット。それからしばらくして、エグリ車を生産するフランス・ゴデ社で、エンジン込みの完成車を販売している、というニュースを見た東本氏は、通訳を介してフランスにオーダー。購入の経過は後述するが、ようやく入手したエグリ・ヴィンセントの動力性能よりも、その美しさに息をのんだ。
「ナナハンより30年も前に200km/hを達成したなんてどんなだろう、っていうのが購入の唯一無二のきっかけ。ナナハンより速い? どれどれ、っていざ手に入れてみると、動力性能はさほどではなかったけど、美しいオートバイですね。特にエンジンはね、あの造形は芸術だよ」
「配管工の悪夢」とまで言われた、信頼性の確保のためにエンジン外部に取り回されたオイルラインも改良され、すっきりとしたレイアウトで、美しくデザインされた空冷Vツインエンジン。さらにその芸術品を抱く、美しく取り回された繊細なパイプフレーム。もちろん、フリッツ・エグリが「欠陥品」とまで呼んだパフォーマンスも完成度を上げている。
「ヴィンセントのスタンダードの乗り味は知らないけど、エグリフレームはまったく普通だったよ。まっすぐ走るし、普通に止まり、曲がる。ヤワいなんて印象なくスピードも出たけれど、もちろんナナハンの方が速いよ」
今から70年以上も昔のモデルの空冷Vツインを、現代の車体、それもフレームビルダーの作品に搭載する手法で、日本でいう戦後のスーパーバイクが現代によみがえった。
世界最速のバイク、最愛のバイク、スーパーバイク――オートバイを表わす言葉はたくさんあるけれど、エグリ・ヴィンセントを目の前にするとドリームバイクと呼びたくなる。