オートバイの生産開始直後からレースで活躍したヤマハの市販スーパースポーツ

画像1: オートバイの生産開始直後からレースで活躍したヤマハの市販スーパースポーツ

YDS-1 1959〜1962

画像: YDS-1 1959〜1962

YDS-1 1959〜1962

端正な美を見せるヤマハスポーツ250S。

フロントフェンダーステーがフォーク下端でボルト締めされる、いわゆるヤマハ昌和製で、エンジン、ミッションとも対策された車である。

全体の構成は、西独アドラーのワークスレーサーを範とし、スタイリングは、GKデザインがYDIで発揮したイタリア調を導入。半月形状のリアフェンダーが、そうしたことを強烈に感じさせてくれる。

1959年のモーターショーには125Sが展示されたが、もし市販されていれば、250と同様の外観を持つ125ccツインを楽しめだろう。しかし、ヤマハは50ccもモペットやスクーターなど、量産すべき機種を多数抱えていた。

ちなみに、ヤマハの1959年度生産台数は、自動2輪180台(業界3位)、軽二輪1万7428台(同2位)、小型2輪3万4836台(同4位)とまずまずであったものの、年間12万台のスクーターと、32万台! のモペット需要の伸びに、1枚加わるべく頑張っていたのである。

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ステアリングダンパーを中央に、独特のメーターやガソリンタンクを見る。

ヤマハはDKWベースのYA1以来、ドイツ的デザインを好み、レバーやグリップゴム、スイッチ、ホルダー類にそれが表れている。タンクキャップに至っては、なんとBMWと同寸法である。

しかし、スロットルや大径メーターには、イギリス風のアレンジが見られるし、ダンパーノブはイタリア的ともいえる。コンビネーションメーターは世界初の上下構成で上部のスピードメーターには日本初のトリップメーターが装備される。

このトリップは、マイル表示をベースにしたものか、3桁しかなく、ロングラン愛好家には不評だった。しかし200km/hフルスケールと、14000rpmのタコメーターという豪華な装備はエンジンを回すというスポーツ車本来の楽しみを十分に味わわせてくれ、外車にも匹敵すると、当時のライダーに言わしめた。

国産250ccスポーツ車の台頭が、1960年代以降、外国製中古車の価格を暴落させるが、この250Sはそのトップバッターだった。

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三菱製DA65/AL= 6V65Wを1600rpmで流す、DCジェネレーター+ポイントが収まる右側クランクケースカバー。YD-1よりもアドラー色が薄いのは、やや細長い形状になったせいもあろう。

クラッチケーブルが反対側に移ってスッキリしている。レーシングマグネトー(電装のFDOキット、当時1万8475円)用のハイテンションコード取出し口のラバーキャップがシリンダー下側に見える。

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アサマYD-Bレーサーから発展した250Sのパワーユニットは、ボア・ストローク56×50ミリ、246ccのピストンバルブ吸入で連続最大出力20 HP/7500rpm。

実質的には4000rpmから本領発揮すると言われた。だが、アドラー型のYD-1をベースとしたYD-Bとは異なり、1959年2月にデビューしたYD-2を直接のベースとしたため、クラッチはクランク軸となっている。

ちなみに、クラッチがミッション側に着くのは、DS5Eからである。圧縮比は当初8.0であったが、250SからYDS-1と名称が変わる間に6.8に落とされた事はあまり知らされず、S2がデビューした時点で、ミッションを含めてエンジンが改善されたことが公開された。

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長い吸入ポートによるチューニング法は、アドラーというよりもDKWのスタンダード系=YA-1、YC-1のノウハウを注いだものであった。

アドラー、DKWのピストンバルブGPレーサーでは、より大口径のキャブレターをシリンダーに密着させていた。キャブレターやプラグの能力がまだ外国製品に追いつけなかった時代のチューニングと言えようか。

これもS2/TD-1以降は大きく変わり、長いマニホールドが廃止される。キャブレターはミクニのVM 20H4/5 .メインジェット#80 (今日の番手とは口径が異なる)、20Aの場合、ニードルは上から2段目、エアスクリュー戻し量は3/4回転となっている。機関番号TDS☆4753で'61年生産車。

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YD-1以来、クランクケース部に見られた放熱フィンは、一応、空冷のRDシリーズに至るまで(ピッチは別として)残されたが、DS6系までが特に美しい。

ヤマハ独自の56×50ミリのボア・ストローク比は、イギリスのビリアース系=50×62から63.5ミリ、西ドイツのイロ系=52×58ミリ、そしてアドラー系=54×54ミリなどを大きく引き離す数値で当時の常識を打ち破ったもの。

YD-Sは以前のショートストローク例としては、1909年のスコット=66.7×63.5ミリ(486cc)挙げることができる。いずれにしても、ヤマハ型ボア・ストローク値は、以降の2サイクルユニットの良き手本となった。タンク下部にはドイツ車然としたエアポンプを内蔵する。

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バッテリーを始めとして、レギュレーターなどの電装品を露出させたことにより、本格的スポーツモデルをアピールすることに成功した。

バッテリーは6V7.5Aの古河BML4-6、またはGSのMZ3-6で、ヒューズは10A。プラグはB6Hが標準。ヘッドランプは6~8V35-35W、または35/25Wで、テールランプは6~8V5/20W。

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リアブレーキはワイヤ作動で、ペダル側はこのようにアジャスタブルロッドになっている。本来ならこの部分にはラバーブーツがつく。ブレーキペダルはメッキがオリジナル。

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フロントブレーキは、アサマレーサーでの実績を踏まえて、アドラーMBと同じφ180mm。ハブの仕上げや形状までよく似ているが、ブレーキパネルはBMWに近いデザイン。

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いかにも機械という印象のリアブレーキ部。ブレーキアームや周辺のパーツが美しい。リアショックユニットのシンプルさに時代を感じる。ドラムはΦ180㎜で、制動距離は初速50km/hで15mだった。

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ミッション側13T、ホイール側43Tのスプロケットは、3本のボルトとラバーによるクッシュドライブ方式。チェーンは92リンクで、2次減速比は3.308ということになるが、メーカー公表値では3.357というものもあった。

また、ミッションについては、初期型に①2.063 ②1.579 ③1.273 ④1.042 ⑤0.846というクロスレシオモデルも存在し、主にレースに用いられた。

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