※本企画はHeritage&Legends 2024年2月号に掲載された記事を再編集したものです。
誕生40周年をきっかけに専門ショップが集まった
GPZ900Rのデビュー40周年を節目に、顔見知り同士集まって、ニンジャの今、そしてこの先への思いを話し合ってみないか ──。
そんなテーマを持って集まった、ブルドッカータゴスの田子さん、トレーディングガレージナカガワの中川さん、そしてMCジェンマの石田さん。そんな会合の場に、H&Lも同席させていただく機会を得た。場所はMCジェンマ・石田さんがショップを営む大阪・八尾市。すでに年の瀬も迫りそれぞれに多忙だろう12月だったが、その会合は小春日和と呼ぶにはあまりに暖かな1日に開かれた。座談会の背景を飾るのは最終モデルのA16。役者は揃った。早速、お三方の話を聞こう。
H&L:まずは話のきっかけとして、皆さんがニンジャを意識しだしたのはいつ頃か? そんな話題からスタートしましょう。それではお年の順に(笑)、田子さんから。
田子:若い頃、それこそバイク屋さんに勤めさせていただいている頃から、すでにGPZ750Rは売ってたし、900Rも逆輸入車として国内に入ってきていましたよ。でもその頃は油冷のGSX-Rにみんな惹かれていて、ニンジャを見ても誰もそんなに興奮しなかったなあ。当時、トップガンもサラッと見ただけだったしね。
ニンジャを意識しだしたのは’97年に店を出して、ZZR1100Cから譲り受けたニンジャに乗り換えた頃。乗ってみたら「これ、楽しい!」って。ちょうど東本昌平先生の漫画・キリンを読ませてもらった時期と重なって、「ああ、悪人はニンジャに乗るんだな」(笑)なんて思ったりしました。
タゴスは僕の趣味の延長上にありますからレースも始めて。それで’99年に社員旅行でデイトナのバイクウィークを観にいったらオーヴァーレーシングの佐藤健正さんが居らして、「ニンジャでレースやらないの?」って。じゃあ、やろうか! ってなって実際のスタートは2000年頃でしたが、TOF(現TOT)のZERO-1に出ました。その頃の店長が元国際級ライダーで、当時のコースレコードも記録したりして、もうそこからはどっぷりハマりました(笑)。
中川:僕はPM(米国・パフォーマンスマシン)のホイールをやり出した頃。’94年にその下地作りにロサンゼルス(※編注:PM本社はカリフォルニア州ロス近郊にある)に出かけたら、ニンジャが結構走っていて「ああ、アメリカでもまだ人気があるんだ」と思っていたところに、PMで「ニンジャはもちろん、ZX-9RやZZRにも付くから、ぜひディストリビューターをやらないか」って。日本国内はカスタムブーム。為替は1ドル=110円の頃。これは儲かっちゃうかもってね(笑)。
さて、じゃあニンジャでカスタムを作ろうかとなった時、昔から地元(静岡県富士市)のHKSともつながりがあり、当時のスズカ8耐参戦車もよく見ていましたからエンジンは大概分かる。分からないことがあっても誰にでも聞けた環境だったのですが、どうもエンジンがヤバイらしい、と。’96年、A10が出た頃だったかな。みんなブン回して乗ってはエンジンを壊していた。
何か問題があるに違いないとブローしたエンジンを見せてもらううちに色々気づいて。そんな時期にバイカーズステーション誌の佐藤編集長に「本気でやってみたら」と言われて組んだエンジンで160psを出したと言っても誰も信じてくれなかったなあ(笑)。
石田:ニンジャがデビューした’84年、僕はまだ16歳で地元・門司のバイク屋さんで手伝いをしていたんです。今思えば、バイクのことも機械のことも、そのバイク屋さんで教えてもらったかな。当時は門司港の港湾で働くオッチャンたちの景気が良くて、みんなモトグッチやドゥカティのMHRみたいな高級外車でお店に乗り付けるんですよ。ニンジャもいたけど、初めて見たのが赤だったか黒だったか、覚えていないくらいの薄い印象。
そのデビュー当時を振り返ってみればニンジャはそれほど注目されなかった
中川:そう。斬新なデザインだったけど、カクカクしたエッジの効いたデザインも、決してカッコいいとは思わなかった。やっぱりZ系やGSX-Rの方が馴染みやすかったよね。そのうち、トップガン(’86年公開)を観た仲間や後輩が「トム・クルーズになれる」って言い出したんだよね(笑)。
石田:トップガンが上映された頃、僕は海上自衛官だったんですよ。もう、ドンピシャです(笑)。そのマーヴェリックの印象にキリンも始まりました(’87年〜)から、不良=ニンジャって憧れもあってそこからはひと筋ですね。
田子:今はまじめな方が多く乗っていますよね。みんな、大事にしている。トップガンといえばウチなど、’22年に公開されたトップガン・マーヴェリックを観た若い人が「自分の生まれ年のニンジャに乗りたい」って来店してくれたり。若いライダーにも、あのバイクはなんだ! って思わせるぐらい、独特の味があるんだろうな。
中川:今のバイクと違った味がありますよね。質感もいい。ちゃんと整備されたニンジャって「あ、これでいいんだよなあ」って乗り続けられる。自分が興味を持ち始めた頃と同じ気持ちに戻れるんです。リターンしてきたオジサンたちにもいいバイクのはずですよ。
田子:16インチも良かった!
中川:そう! 前期型のままで良かったはずだけど、当時の潮流やメーカーの都合もあったんだろうと思うけれど、フロントが17インチ化されてしまった。仮に16インチのままだったら、それに合わせたハイグリップタイヤも生まれて、今とはまた違ったニンジャの世界ができていたかもしれませんね。
石田:そういう意味では僕らが最後の16インチ世代かも。自分のニンジャに16インチのK300GPを履くか、17インチに替えるか迷った頃がありましたから。
H&L:さすが、ニンジャの話になると切りがありませんが(笑)、カスタムという切り口では皆さん、いかがでしようか?
石田:僕は九州でおふたりのご活躍を憧れながら見ていたのですが、まず、田子さんで言えば当時の雑誌・バイク王の谷田部での最高速アタック企画で286km/hの記録を出されたり。たしかZZRのホイール履いてませんでしたか? 僕、すごく注目していたんですよ(笑)。一方で中川さんはエンジンスワップが凄いなあって。エリミネーター900にZRXのエンジンを積んでチェーンドライブにしたバイク、作ったじゃないですか。当時、僕は九州でドラッグレースをやっていたんですが、こっちでも話題に上っていたほどでした。
’04年のゲイルスピードの登場がカスタムの流れを大きく変えた
中川:’90年代のカスタムって、他モデルからの純正部品流用がほぼ半分って感じだったですよね。そうして出来上がったカスタムは、カタチこそ出来上がるのだけどちゃんと走るかはまた別の話で、そこもショップのウデの見せどころでした。ただし、みんなセットアップに苦労した時代でしたね。
そんなカスタムの流れが変わったのは2000年代に入ってから。アクティブがゲイルスピードのホイールを発売したり、車種別対応のカスタムパーツがパーツメーカーからどんどん送り出されたりで、変わらずセットアップが必要なのだけれど、ショップのさじ加減の自由度が増したし、なにより安全性が格段に上がった。
田子:それまではA7以降でも前後17インチホイール化するためにZZRのホイールを入れたカスタムが流行ったよね。でも、付けたはいいけれど重量が増加して後悔しちゃったりね(笑)。当時のZZRのリヤホイールは9万円ぐらいで、加工工賃やタイヤ代を含めると20万円ぐらいになった。ゲイルスピードのホイールなら前後セットが手に入るって話。それってもう、革命的な出来事だった。
中川:僕がPM製ホイールの販売を止めたのも、実はそこが理由なんですよ。ゲイルスピードの対応車種がどんどん拡大して、PM使って加工装着する意味がなくなっちゃったんですから(笑)。
ほかのパーツも同じで、アフターマーケットのパーツの精度がどんどん上がった。それでも手軽に思えたのか、カスタムは純正流用でってお客さまもいましたけど、危ないし手間賃だってかかるから、止めなさいってカスタムプランの軌道修正をさせていただいた例も結構あったんですよ。
田子:マーケットでは2輪も4輪もマフラーを筆頭に、そろそろ規制が厳しくなってきた頃でしたからね。お客さまに頼まれるまでもなく、きちんと車検に通るカスタムバイクを作らなければならなくなった。2000年代前半はそんな過渡期でしたよね……。
── そして話題は現在、そしてこの先のニンジャ・カスタムの課題へと移っていくことに。気になる後編も是非楽しみにお待ちください!
取材協力
ブルドッカータゴス
トレーディングガレージナカガワ
MCジェンマ